!」さよは、唇に鮮やかな血色を失った。彼女は、努めて声に力を入れ、眼球が強ばるほどせき上げる激情をやっときれぎれな言葉に表した。
「そんな、生半可なフィジオロジなんか……すてておしまいなさい。そんな下らない智識で、貴方、私の心全体、判断出来るとお思いなさる……何故真心でいきなり、真心でぶつかっていらっしゃらない! 卑怯です。――卑怯というのは……そういう」
 さよは、言葉が喉に塞《つま》って、熱病に患《かか》ったように体中を戦慄させた。
「貴方は……私が――自尊心を傷けられて黙ると……思っていらっしゃる。私の哀れな見栄や己惚れを――……利用しようと……思って」
 彼女は、激しい悪寒と熱とが一緒くたに体や頭の中を貫いて奔流するように感じた。彼女は、両手で確かり顔を押えた。そして、保夫の机の端に肱をついた。体は、畳から浮上って気味悪く高い庭へつり上ったかと思うと、眩暈につれて、低い低い、底なしの暗闇に沈み込むようだ。――
 彼女は、静かに泣き出した。なま暖い涙は、掌を洩れ、手の甲を伝って、ぽたり、ぽたりと机の上に大きな滲みを作る。彼女は、その涙の奥に、幾年か忘れていた一つの光景を思い出した
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