軈て、保夫が身動きをした。そして、濡れているさよの顔を見なおした。
「――顔でも洗っておいで」
 さよは、保夫が、いかにももう峠は過ぎた、という風に云い出した調子に不快を覚えた。彼女は動かなかった。
「……行ってちゃんと顔でも洗っておいで。だいなしじゃあないか。――」
 それでも、彼女が返事もしなければ、立とうともしないのを見ると、保夫は、さよの急所を刺すように辛辣な調子で独言した。
「余程、今晩は調子が妙だな。……」
 彼は、煙草の烟を故意に長く、二ふきばかり電燈に向ってふきかけた。そして、曰くありげにじろじろとさよを視、質問した。
「あれは、いつかい」
 さよは、横を向いたまま、低い涙声できき返した。
「なに?」
「君のあれさ――判るだろう」
 さよは、首を廻して保夫を見た。彼の視線は心得顔に彼女に向って注がれている。さよは、本能的に意味を覚った。それと同時に、彼女は体中の血が、一時に逆流するような憤ろしい衝動を感じた。「何ということだろう! 彼は、自分の云うことを皆ヒステリックな発作だときめているのか。気に入らないことは、皆病的とする男性の暴虐を、この良人まで持っているのか
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