ットの女のように、良人に噛みつき擲り合って、しんまで事がさっぱりするのだったら、どんなに晴ればれするだろう。脳髄の皺がほんの少し多いばかりで、さよは、自分の指一本動かせなかった。彼女は、この苦しさが、擲り合いで片づかないものであるのを知っていた。また保夫は、打たれて打ち返す男ではなく、心に氷のような侮蔑を含んで眉毛も動かさないであろうことを知っていた。彼女は、燃え顫える激情を、ただ熱い数滴の涙にだけ溶して、淑やかに教養ある日本女性の典型のように、二つの手を膝に重ねていなければならないのだ。――彼女は、様々に思い乱れた。「夫婦というものは、どこでもこんな味気ないものなのだろうか。どうかして、体も心も安心して一つになってしまいたい、その判り切った願さえ、黙って堪えて行かなければならないのか」
さよは、すすりあげながら、親子より親しい夫婦の中などという云いならわしを、絶望を以て思い起した。
六
永い、張りつめた沈黙が、森と明るい小部屋に充ちた。
さよが、時々微に短い身じろぎの音を立てる。――前後の寂寞は、戸外の闇とともに、いよいよ圧力ある深さを増すように思われる。…
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