上において、何となしその頁をひらいて数行をよむことで創作への熱心を刺戟されるような文学を見出せなくなって、途方にくれた。けれどもこの経験は、日本の社会の現実認識の方法と文学評価が、全体として志賀直哉の文学を卒業した、という事実を語ることでないのは明らかである。「アンナ・カレーニナ」の悲劇がほんとうに卒業された文学[#「卒業された文学」に傍点]になった、ということは、その社会に新しい人間性の全基準が生れ、新しいモラルのなりたつ社会的条件が確立した場合にだけ云われる。しかも、外部的にそういう社会条件がなり立ったばかりでなく、そのように新しくなった社会の成員の感情の内部までも、新しい発展に立つようになったとき、はじめて、「アンナ・カレーニナ」は一つの社会によって卒業された文学と云えるのである。
 ソヴェトの男女は、アンナ・カレーニナの悲劇のうちに[#「うちに」に傍点]生きてはいない。それだのに、どうして、芸術座はアンナ・カレーニナを上演し、名優タラーソヴァの演技は、世界の観客をうつのだろう。タラーソヴァと芸術座の演出者は、こんにち地球にのこっている資本主義の社会の上流[#「上流」に傍点]で、
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