点こそ、アメリカ現代文学の無気味な点ではなかろうか。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの強烈な性格と生活力にかかわらず、バトラーの抜け目なさにかかわらず、彼らのところで経験されたのは状況と境遇とにすぎなかった。アプトン・シンクレアの「ラニー・バッド」は、尨大なアメリカ式|切抜き《スクラップ》と整理《ファイル》の事業である。作者は、その国の億万長者たちが世界地図をいつの間にか盤にして、その上にチェスのコマを動かしているように、世界のあらゆる場所にラニー・バッドを出没させる。地球とそこに起る出来ごとは作者の目の下にあるようだが、主人公であるラニー・バッドとは、何者だろう? その行動性をぬいたら、彼のヒューマニティにのこるのは博識と社交性とそしてすべてのものに不自由のない人間の一種底なしの虚無ではあるまいか。「アメリカの悲劇」は、たしかにこんにちドライサーのテーマとしたところから前進している。「ブルー・ラプソディー」にまで。
 こうつきつめてみると、日本の作家が「スタインベックの程度」にかかないということも単純でなくなって来る。
 世界の現実に対して、理性が主体的な角度に立つリアリズム
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