、人間にはそう[#「そう」に「(ママ)」の注記]人はありにくいもんですものねえ、そいで又人には各々の特別な感情なり性質なりをもって居るもんですもの中々そう云う風には行きませんわ。孔子様の伝を書いても耶蘇の一代記を書いても、そりゃあ材料は欠点のないものですワ、どっから見てもネエ、けれ共、それを書いた結果が不成功だったら、ほんとうの純文学の価値はないでしょう。孔子の文を書いて出来の悪かったより、弁天小僧を書いた方が立派に出来て居たらその方が価値のあるものになるんです。泥棒をするんでもそのする時の感じがあります、他人の奥さんをよこどりする時にだってそれについて特別感情はあるにきまってますよねー、だからそう云うこまっかい感じをよくうがって字に書いてある感情が自分の心に入って来て自分の感情になってしまいそうになるほどに書いてあるんなら立派な創作として見る事が出来ます、そうでしょう、感じのよく出て居る文、考えさせられる深刻な文と云うのが純文学だと思ってます、そう云う事はほんとうにむずかしい事ですもんねえ、近松物を道徳の上から娘には見せられないものであっても純文学としては価値のあるもんですものねえ、
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