部屋に入った。波うつ様な心地になって原稿紙に向ってふるえながらペンをにぎってジッと紙の肌を見て居た。感情の走った千世子の心の中に木の肌、草の葉、花の蕊なんかにこもって居る目に見えない物が心をなぜる様にくすぐる様に快いものになって入って来た。
 千世子の目から涙がこぼれた、紙の上に丸あるいしおらしげなしみを作った。心の中に「今の心ほどしまった純な創作をどうせ私に作る事は出来ない、この紙はその涙のあとで、下らない字が書かれるよりよろこんで居る――私も又この方に満足して居る」
と思って居た。
 千世子が感じて涙をこぼす時は、たった一しずくやけそうにあついのをこぼすかそれでなければ夕立の様に心まで心のそこまでひたりそうにこぼすかどっちかであった。
 その時は一しずくほかこぼさない涙であった。千世子の心の中には限りないよろこびと感謝と目に見えないものを祝福する心でみちみちて居た。
[#ここから1字下げ]
「アアア私は何て幸福なんだろう、私はどうしてこううれしくなれる心をもって居るんだろう」
[#ここで字下げ終わり]
 ほほ笑みながらくびをふってはね上る様な心になって居た。
[#ここから1字下げ]
前へ 次へ
全192ページ中116ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング