ふり、彼女の鼻歌をうたいつづけた。
  船が行く――
  渦巻く水は
  じきに気ずいに
  魚を飼うだろう
 ナースチャは、リザ・セミョンノヴナが自分を信じないことを感じた。
「どうしましょう? リザ・セミョンノヴナ」
 リザ・セミョンノヴナは黙っている。
「ね、リザ・セミョンノヴナ」
 自分の虚言《うそ》の見破られた意識から、ナースチャは困って泣きそうになった。
「ね、リザ・セミョンノヴナ」
 ナースチャは不器用に手をのばして、リザ・セミョンノヴナの膝にさわって云った。
「悪く思わないで下さい」
 リザ・セミョンノヴナは、それでもやっぱり黙っていた。
 ナースチャがもらって来た書類は、二つ折になって食堂の棚の上にのったまま受難週間になった。
 建物の中庭へ荷馬車が入って来た。そして、雪の下から現われた去年の秋からのごもくたを運び去った。黒い湿った地面が出た。人はまだ冬外套を着て往来を歩いていたが、日が当ると、中庭の黒い地面からはものの腐る温いにおいがした。それは春の匂いであった。日に数度借室のだれかが、中庭で絨毯をたたいた。張り渡した綱にたたいた絨毯を干して、建物のそばのベンチに子
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