でも行けるのであろうか。原っぱへ出て、夏空の下の長い堤防や遠くの動かぬ貨車の列を見る時、ナースチャの眼に涙が浮んだ。小学三年だけ行ったナースチャの頭に、アンナ・リヴォーヴナの言葉はつよくうちこまれ、彼女は忘れることが出来なかった。しかし、ナースチャは口に出してはなにも云わなかった。自分の心がこわかった。
ある午後、市場《ルイノク》へ買い出しに出かけていると夕立がかかって来た。ナースチャはいそいで市場のアーチの下へ逃げこんだ。アーチは奥行が深く、その内壁に沿うて十六カペイキの耳飾や針を売る三文雑貨屋や、紐屋、古着売りなどの店が張られている。五六人の労働者と、子供をかかえた一人のツィガンカがやはりアーチの下へ雨宿りに来た。ツィガンカは裸足で、赤い更紗の重くひろい裾《ユーブカ》を蹴るように歩き、一人一人の労働者の前に手を出した。銭をやるものはない。風がさっと吹く。雨あしが白くけむって移った。労働者の濡れた体が乾きかける一種の匂いとタバコの匂いがアーチのなかにこもった。山羊が一匹、野菜店のさしかけた板屋根の横から雨をついてこちらへ向ってかけ出して来た。アーチの下へ入ると、山羊は壁によせて開
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