の祖母たちはカンプラと東北の呼名で呼んだ馬鈴薯の種を、どこへまいたら、育って花を咲かせて、米の足しになるようなみのりかたをするだろうか。もしも、うちでやるとすれば、東側の竹垣の根へ少々その東からの光線がさす西よりのところに少々、位置をそうきめたとして、土は鉢植えにさえ適さないものだし、すこし深く掘ると、ここは何故だか瓦のこわれだの石ころだのが出る。田舎から来ている従妹は、ジャガイモ話は本気にしないで、ハアハア大笑いしているのも無理ないと思えた。
 お米の足しに、ジャガイモが実質的な意味をもつというような程度の日暮しの東京の家庭が、十坪以内にしろ、薯《いも》の隆々と成育するだけの日光と水はけとをそなえた空地を果して家のまわりにもっているであろうか。友達たちのあっちこっちの家々を思い比べてみても、これはどうもあやしい。あそこなら薯も育ちそうだという庭の思い出されるうちは、米が不足すればジャガイモをつくるより先に何かほかのものを買って補いをつけそうである。
 全国的な米の不足に対して、都会も消費者としての側からばかりでなく、せめては馬鈴薯をつくるなりして、困難を凌いでゆく一つの感情に結ばれて
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