《にじ》ったと同じように死をも侮辱した。それは極端な表現のように思われるかも知れない。果してそうだろうか。
 新聞で私達は玉砕と言われた前線部隊の人々が生還していることを度々読んだ。死んだと思われた人が生きて還って来るといえば私達の心は歓びで踊るように思う。然しその本人達は、そのような歓びを無邪気に感じていられただろうか。自分を死んだものとして無責任に片づけ、而も如何にも儀式ばった形式で英霊の帰還だとか靖国神社への合祀だとか、心からその人の死を哀しむ親や兄弟或いは妻子までを、喪服を着せて動員し、在郷軍人は列をつくり、天皇の親拝と大きく写真まで撮られたその自分が、生きて還ってみた時に「死んでいる」自分の扱われ方にどんな心持がするだろう。生きて還って来るまでにその人の死と闘った経験は、実に口にも筆にも言い現わせないものであったと思う。又、その人が、自分が生きようとして凡ゆる惨苦をしのいでいる時に、その周囲でほんとうに死んで行った人々の様々な死によう、その人々がどんなに自分と同じように最後まで生きようとして闘ったかというその思い出、そういう生の内容を以て「死んでいる」自分の猿芝居のような扱わ
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