ういう経験をするのも悪くないよ」
鴻造は、それが彼の社会的な重みも示すものとなっている、誇張した話しぶりに自分では気付かず、そんな表現をした。そのとき慎一は、
「僕はそういう向きじゃないようだ」
笑いながらだが、はっきり云った。
「そんな荒仕事にはとても向かない人間ですよ」
大柄ではあるが、ゆったり椅子に靠《もた》れてそう云っている慎一の眼差しのなかには、思慮のこまやかさと心の平らかさを語る艶《つや》が籠っていた。
鴻造はやや暫く黙って髭の両端のところを下から撫で上げるようにしながら、その慎一の眼を見ていた末、
「いや、案外それが当っているかもしれんね」と、あっさり納得した。
「木乃伊《ミイラ》とりが木乃伊になられちゃ困る。まあ、いずれ、またはまり場処もあろうさ」
現在慎一の持っている仕事、それで生活している勤めさきなどは、鴻造にとって仕事のうちに数えるものと思われてもいないような調子であった。あとになって、その話が鴻造ひとりの腹では九分九厘まで出来るものとして、軍関係の或る人に対しひきうけてあったと嫂からきかされて、峯子はいい気持がしなかった。若い自分たちの生活というものを
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