ないの、何故……」
殆ど憤ったような二つの眼で慎一を見詰めたが、その眼にやがて涙が溢れて、
「そうね、あなたはまるで御存じないのね、ね、そうね」
と微笑みながら云った。その思い入った優しさに迸《ほとばし》るものがあって慎一を深く動かした。その時のことを後から思い出す毎に、慎一は、少くともあの時自分の気分には、妻よりも軽薄なものがあった。実際慎一はそのときまで、夜なか、そんなに度々、そして永い間、妻が目を醒していることがあったなどとは思いもかけていなかった。
白い蚊帳《かや》を一杯に吊ると、二階の部屋はそのまま一つの半ば透きとおる籠のような感じになった。どこからも足場のない例の西側は開けたきりで、そこから蚊帳の裾へぼんやり樹のかげを落したなり、彼等は寝に就いた。一緒に溶け込むような深い眠りに入って、いくときか経つと、ふっと峯子は目を醒した。いきなり眠りのそこから真直に、はっきりと目が醒めた。あたりの夜気は冷えて白い蚊帳も露っぽく重くなって来ている。その裾の方に西へまわった月の影がさしている。殆どものをかけないで眠ってしまっている慎一が冷えはしまいかと、手をのばして、偶然健やかな寝息を
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