、或る一定の距離を隔てて面する以上決して、より接近し、しっかりと魂の奥まで掴んでくれようとはしない。不思議に、遣場のない不安、呪咀。当のない力の焦躁。行き処がない、行き処がない……
正隆は、憤りにまかせて、フム! やって見ろ! と叫ぶだろう。けれども、それは決してその瞬間の、心そのものの空虚を満すものではなかった。相変らず、淑やかな、温順な、動じない妻。正隆や、正隆や、と云う母。然し、二人は、何の力も加えてはくれないのだ。彼女等の、相変らずの柔かさ、ほの温かさが正隆を、一層苦しませる。彼は、自分と共に若し信子も怒鳴って、狂《あ》れて、呪咀すべき運命、人間、に拳を振ってくれたらば! と、思う。それでなかったら、何か、火のような言葉で、自分をハッとさせてくれさえしたら! と希う。希う。ほんとに希う。が、出来ない。
信子夫人は、良人として与えられた異性に、ただ従順に、貞淑に、美くしい身嗜みで心を和らげる妻として育てられて来た。彼女の予想した夫は、多大な名誉と希望とをもって、華やかに彼女を引立てる筈のものであった。総てはちがって来た。信子夫人は勿論そう思わずにはいられなかった。正隆も勿論、そう思う。正隆は、運命の顔を見そこなった自分、見そこなうような運命の詭計《トリック》に一生足を攫《さら》われなければならない自分を見出して、総ては違っていたのだ、と思わずにはいられないのである。
自分は母に愛された。よい天分を与えられて生れた。それにも拘らず、いざ、その力を使ってほんとの幸福を掴もうとする段になって、何故自分は、これほど、他人の嫉妬に苦しめられなければならないのだろう。
暗い運命が、一生自分を覆うと知って、何故自分に何かの力を授けてくれたのだ、
何故、人並に幸福らしい、生活の一片を投げてくれたのだ?
自分を、富ませ、美くしい信子と、愛すべき正房とを与えて置きながら、どうして、そんなに、足を掬《すく》って倒すのだ?
信子は、信子によって新しくされた生活の総ては、それなら、それなら、今の苦痛を一層深く、堪え難いものとして味わせるために、与えられた餌食だったのだろうか? そうなのか、ほんとに。そうなのか、若しそうだとすれば――。
正隆は、額に膏汗をかいて吼った。若しそうだとすれば、信子さえ、この麗しい信子さえ、見えざる無数の敵の間牒だと、いわなければならないのだろうか?
十二
恐ろしい、それはあまりに恐ろしすぎることだ。正隆は、計らずも自分の生命の偶像である信子夫人に向けられた疑問を抱いて、三晩一睡もしなかった。
若し彼女が、自分の愛に応答しない、信頼を裏切る悪魔の使いだったら、どうだろう。総ては、もうそれっきりである。もう、それっきり! その先にあるものは、云えない。云えない無が、虚無が、闇が拡って、彼を嚇やかすのである。
彼は、何かただ一事で、馬鹿な貴様だな! と笑って、その疑問を殺してしまいたかった。けれども、彼は、そうは出来なかった。
結婚の当時から、何かの折に触れては感じた、あの「けれども」という愁訴。幸福な間、その幸福の持つ、華やかな色彩で、何時の間にか隠されていた、その一種の、明かな物足りなさは、絵の具が落剥《らくはく》すると共に、何か意味ありげな穢点となって、正隆の心の前に滲みついたのである。
ここに至って、正隆の内面的な問題は、一廻転したように見えた。今まで、ただ漠然と衆に向って注がれ、放たれていた疑惑は、今あらゆる力を集注して、信子をその対象として掴んだのである。もう、正隆にとって、自分が、役所をどうして罷めたかということや、これから先、どうやって行こうなどということなどは問題ではなくなった。ただ、信子である。信子が、真実に自分を愛し、自分を信じ、その愛と信とのために、自分に送られた者であるか否かということが、唯一の疑問である。彼の生涯の希望は、ただこの一点で決せられるように思われて来たのである。
若し、信子が、ほんとに自分を扶け、自分と禍福を偕《とも》にする決心でいるのなら、生活に、まだ何かの光明がある。四方、八方から虐げられても、彼は、夫人の美と、美の持つ力とによって、何か生きて行く途を得られることを信じていた。若し彼女が、悪霊の傀儡《かいらい》でないならば、敵は、まだどこかに隙を与えているということを思う可能があると、思ったのである。それから緊張し始めた正隆の注意は、殆ど間牒のように信子夫人を踉《つ》け廻した。彼の傍にいる時も、いない時も、外との交際も、あらゆる隅々を圧えて、彼は、信子の正体を見窮めようとし始めたのである。
けれども、それは彼女を愛す正隆には堪え得ない仕事であった。
正隆は、信子を失うことを平静に想像することは出来ない。涙なしに考えることは出来なかった。彼女の美と、捧げられた奉仕を、彼は、いざとなって何の悲歎もなく振り捨て得るとは、どうしても思われない。たとい、彼女が、敵の見えざる掌から渡された者でも、若し彼女が自身でそれを自覚もせず、また利用されさえしないならば、自分は、決して彼女を見返すことは出来ない、と思わずにはいられない。どこに彼女ほど、清澄な美を持って生れた女性がいるだろう。
どこに、彼女ほど高い気品を持った女性がいるだろう。
彼女の従順と、謙譲と。醜い女でも持ち得る、そのために人に尊敬さえ払わせる美徳を、比類のない輝くような美に並有している女性、その信子、その婦人が、尚も自分を裏切るだろうという想像は、正隆にとって、恐るべき苛責である。
自分の歯で自分の魂を食う苦しみなのである。
彼は、一日一日と日を経る毎に、その疑惑に堪え得なくなって来た。無言の中に、信子を監視する冷淡に、じっと息を殺してはいられなくなって来たのである。正隆は、ただ一言、はっきりと天地に懸けて誓って欲しかった。どうぞ、焔のような激しさで、愛す! といって欲しかった。そうさえすれば、自分は、せめて信子だけを信じ、守り、縋りついて、生活を続けて行かれるのだ、という切迫した願望が、血行と共に、彼の身内を循環し始めたのである。
この、愛す! という誓言は、今の場合、正隆にとっては、単純な愛情の証言ではなかった。信子夫人の、天地に懸けた愛で、彼自身、彼の全部を、肯定して欲しかったのだ。彼が、不幸な運命を負うて生れた者であることも、彼が、よい天分を持っていることも、それを発揚することは、不可能なことも、総てを、ありのまま、よし! といって貰いたかったのである。
正隆は、どうぞ、
「解っています、皆解っています、私の愛する者よ、さあ確りしましょう、私は、そのままのあなたを愛しているのですよ」
といいながら、腕を引立てて、起して欲しかったのである。
憤りの狂暴な力は、彼を振い立たせるだろう。けれども、正隆は、その孤独な、緊張の中に、たった一人で立っていることは、堪えられなかった。
怒濤のような力が、自然にじわじわと鎮ると、その後を襲う寂寥、恐ろしい迄の静謐《せいひつ》に堪えかねて、正隆は感傷的にならずにはいられない。この反動的な感傷は、今、正隆の疑惑、その所産である苦悶が大きければ大きいだけ、深ければ深いほど、共に強度を増して来るものなのである。
食慾を失って、極度に神経的になった正隆は、殆ど大病人のように窶《やつ》れ果てた。一日中床に就いたきり、起きて動こうとするだけの、弾力を失った正隆は、大きな羽根枕に埋めた頭だけを僅に動かして、傍の信子夫人を顧る。そして、彼は、沈痛な言調で、日に幾度となく、同じ質問を繰り返した。凝《じっ》と坐った彫像のような夫人の小さい手を自分の掌に置きながら、正隆は、先ず、
「信子、お前は、ほんとに俺を愛していてくれるのか」
と、口を切り出すのである。
最初、正隆の質問が唇を離れた時、信子夫人は、微かながら、ハッとした表情を緊張させて、蒼白い、寧ろ土気色ともいうべき良人の顔を、痛々しく眺めた。そして、落付いた声に力を籠めて、
「あなた、御心配はお止め遊ばせ」
といった。
「有難う、信子。俺は心配はしないよ。然し――信子、ほんとにお前は俺が嫌になりゃしないか、こんな不仕合わせな男と、一緒にいるのは、厭じゃあないか?」
「あなたは――、どうしてそんなことをおっしゃいますの、大丈夫でございますわそんなこと」
「大丈夫かえ、ほんとに、それじゃあね、信子、俺はもう一つ、たった一つ、大切なことをお前に訊きたいんだが、ありのまま、何でも返事しておくれ、ね信子」
「何でございますの?――けれども、あなたは、ほんとにいけませんわ、あまりお頭をお使いになると、また気分が悪くおなりになるのだから、後でよろしいことなら、後ほどに遊ばせよ、ね」
「後じゃあいけないから、今訊くのだ――ね、信子、お前は――変だと思っちゃあ、いけないよ。ただ、俺の気になって仕様がないから、参考のために、聞くのだからね、――お前は、誰かに頼まれて、俺のところへ来たのじゃあないのか?」
正隆は、そう云いながら、ひどく当惑し、混乱した表情を浮べて、眼をしばたたいた。その表情を、じっと眼の下に見ながら、信子夫人の唇には、例の不思議な、彼に「けれども」と思わせずには置かないような微笑を湛え始めた。
「誰かに頼まれて? おかしなことをおっしゃいますのね、それは、あなたのお母様や、私の母やなんかが、来てくれ、行け、とおっしゃったから来たのじゃございませんの、ほんとにおかしな方」
「いやね、信子、俺の云うのは、お母さん達のことじゃあない、誰か、そうさな、誰か、親類でも何でもない人に、たのまれは、しなかったかというのだよ」
「あなたは――」
信子夫人は、滑らかな頬にさっと血の色を上せた。
「妙なことばかりおっしゃるのね、私は存じませんわそんなこと」
「怒らないでくれよ、信子、願うから――」
そろそろと逃げて行きそうになる夫人の指先を、確りと握りながら、身を引寄せるようにして、正隆は哀願した。
「憤らないでくれ、然し、ほんとに、お前は知らないの、誰からも頼まれないの? 信子、お願いだから、いっておくれ」
「存じません。――あなたは何を疑っていらっしゃるの、はっきりとおっしゃればよろしいのに」
「疑いやしない、――が、疑っているんだね、疑っちゃ悪いかえ、信子、俺はお前が可愛いのだよ。大切なのだよ、信子、だから俺は――お前に行かれるのが堪らない」
「どこへも行きは致しませんことよ、さあ、そんなことはやめにしてお休み遊ばせ」
夜着をかけようとする夫人の両手を掴んで、正隆は起き上った。
「いい、構わない、大丈夫だ。それでね、信子、俺が何を知りたがっているんだか分るだろう? 俺は、お前が大切なのだ、お前がいなければ生きてもいられない、だから、お前は疑わないでも、お前の後にいる者を疑わずにはいられなくなるじゃあないか」
「何を、だからお疑いになるの?」
「解らないのか、誰かに頼まれやしないかと、さっきから云っているじゃあないか」
「誰のことをおっしゃるのそれは? うちの母?」
「それが分らないのだ。誰だか俺には分らない。だから訊くのじゃないか、信子、どうぞ、正直に云っておくれ、お前は、俺を愛してくれるか、一生一緒にいてくれるかえ、ほんとに、隠さず云っておくれ信子、俺が苦しんでいるのは、お前に解っているだろう」
「それは分っておりますわ、だけれど、あなたは――一体何をそんなに苦しがっていらっしゃるのよ」
「そら! もう解っていない。やはり分っちゃいない。だから、お前は俺の思うような返事をしてくれないのだ。信子、ほんとにお前は――」
手を取られたまま、凝と伏目になった信子夫人の眉の間からは、「男らしくもない!」という憤りが、火花になって散りそうに見えた。正隆の得体の知れない疑いや焦躁に掻き乱された彼女の感情は、彼の顫える熱情を、裏返したような冷静、冷淡に冴え渡って、他人に向うより鋭い批判を、乱された良人の面上に注ぎかける。嫌厭が湧かずにはいられない。その嫌厭は、彼が、自分の良人であるという意識
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