握することの出来る運の戸惑いとして、この失望を堪えようとしたのである。
 然し、彼としては、殆ど予期出来ない朗らかな心底は、或る日受取った一通の手紙で、見事に破られてしまった。
 また破られるのが無理だとは思われないほど、正隆のその当時の魂に対しては、惨酷な蹂躙であった。覆われて来た現実は、俄にパックリと蓋を上げて彼の眼前に見るに堪えないほどの醜陋を暴露した。或る友人によって、好意的に書かれた手紙は、真田が選ばれた理由と、同時に彼に加えられた誤解とを、詳細に説明して寄来《よこ》したのである。
 自分が、あれほど真剣になり、あれほど熱中し、あれほどよい心で努力し、努力し、努力し抜いて出来上らせた仕事を、その仕事を、兄貴のお蔭だなどといって没却させてしまうとは、何ということだ! ほんとに、何ということだ!
「畜生!」
 丁度、晩餐の卓子《テーブル》に向っていた正隆は、いきなり歯ぎしりをすると一緒に、片手に持っていた杯を、擲《たた》きつけた。そして、傍に、無言のまま坐っている夫人に、
「これを見ろ!」
と手紙を差つけながら、ボロボロと涙をこぼした。何ということだ!
 彼が、今まで或る正当なことを予想して、自分の失望を鎮《カーム》しようとしていたことなどは、もう総て、間違いだったということが示されたのだ。自分が、正しいものと思っていたところには、下劣がある、卑劣がある。そして、不公平が最後の審判を下していたのだ。
 素晴らしい自分の仕事を疑う。疑った疑問をそれなら、何故、自分に正そうとはしないのだ。誤った疑いで人の生命を涜《けが》して置きながら、その誤謬のままで価値を定め、自分の一生を台無しにしてくれる――
「フム!」
 卓子の上のものを、ガラガラと肱で片寄せながら、正隆は真蒼な顔を頬杖に支えた。
「フム! また始めやがった……」
 何を始めたのか? 奸策である。彼の一生をめちゃにする悪計である。記憶の奥に埋れて、殆ど忘れかけていたK県でのことが、悪運の眼のように、彼の眼前で輝き出したのである。正隆は、自分の、最初の首途《かどで》を悲惨なものにさせた、何か恐るべき凶徴が、今もなお、執念深く自分の身を離れずに付いて歩いて来ていたのを思わずにはいられなくなった。
 永劫である。永久である。命の、限りである。命の限り、自分の生きている間中は、この、恐ろしい呪咀が付いて廻って自分の行手を遮るのだろう。
 副島氏、生徒、垣内を使った怨念は、今は多くの先輩と、真田とを掴んでいるのだ。いつも、相手は多い、いつも、多い。それだのに、自分は独りではないか。到底敵う筈はない。頭を出すとは擲《なぐ》り、頭を出すとは擲りつけて――。今日でも自分が縊れ死ねば、凱歌を奏して、死骸の廻りを踊るだろう。
 皆が、死ねばいいと思っているのだ。皆が、首でも吊ればいい、まだ死なないか、まだこれでもかと、虐《いじ》めるのだ、何故? 分っているじゃないか、皆は俺が怖いからだ。俺の力が恐ろしいからだ。俺に出られちゃあ、自分達の立つ瀬がなくなるから、邪魔者の俺を、見えない底へ葬ってしまおうとするのだ。
 いつも狙っている、いつも隙を窺っている。それを、俺が知らないとでも思うのか、馬鹿奴。然し、お気の毒だが、俺はまだ死なないよ。邪魔にするなら、して見るが好いさ。けれども、俺も、負けてはいないからな、貴様が邪魔にする気なら、フム! 正隆は、血走った双眼をカット見据えた。覚えていろ、俺も命の限り、邪魔になってやるから!
 夢中になった正隆は、正房を抱いた乳母が御隠居様、と呼びながら主屋《おもや》へ逃げて行ったほど、狂暴な勢で、訳の分らないことを怒鳴りながら、瓶から酒を煽りつけた。そして、しまいには、失神したような信子夫人を、確りと胸に抱き擁《かか》えながら、膏《あぶら》と汗でニチャニチャに汚れた頬を、冷い、滑な彼女の頬に擦りつけながら、
「信子、信子……」
と子供のように泣き崩れてしまった。

        十一

「邪魔にする? フム、面白い、やれ! やれるものなら、やって見ろ!」
 酒精《アルコール》の力に煽られて、夢中になっていた間は、正隆にとって仕合わせな時であった。
 一時に勃発した激情の浪に乗って、我も他人《ひと》もなく荒れ狂っていた間は、まだよかった。然し、次第に酔は醒め、目が覚め、或る程度まで鎮まった正隆の心の前に現れた現実は、ひどいものであった。ほんとに、ひどい。生きるには、辛いほどの世界である。
 一度でも、朗らかな希望の明るみに身を置いた正隆にとって、忘れようとしていた過去の追憶を一新して、今日に甦らせたばかりでなく、互に力を加え合って、彼の絶望を一層大きなものにする今の疑惑は、彼自身の力では逃れ得ない煉獄のようにさえ見えて来たのである。
 K県での忘れ難い印象を、或は一種の病的《ハルシネーション》な幻想だったかも知れないと、彼自らに思わせていたものは、正隆の生活に与えられた、新たな幸福の力であった。
 強調された現在の色調に、知らず知らず過去を薄めていた彼は、今、その頼む現在の破滅によって、俄に、過去を筒抜けに見るようになって来た。遠のいて、ぼんやりとしていた思い出が、一時にカッと鮮明な力強いものになって彼の面前に迫って来る。そして、あの時と、今との連続となっている僅か二三年間の光明は、却ってそれが明るいために、余計、左右の闇を濃くすることにほか役立たないのである。
 感情に激した正隆は、大きな打撃を受けた瞬間から、あらゆる冷静さ、実際的方針というべきものを失ってしまった。
 役所は、ひどい、不正である。自分のすべき仕事と、繋ぐべき希望は、もうない、なくなってしまった。と思うと直ぐ、辞職願を書いて突き出した正隆は、自分に与えられた苦痛を、ただありのまま、そのままに受取って全身で苦しんだ。その苦しみは大きい。深い。そして、魂の根にまで毒を注射するものであったろう。けれども、正隆は、それほどの苦痛に、解剖のただ一刀をも加えなかった。
 自分は苦しい。何故苦しいのか、彼等が不正だからなのではないか、彼等の不公平が自分を虐げるから、自分は辛いのではないか、この点から更に一歩を進めて、それならば、彼等の不公平と、不正とはどんな原因と、内容を持っているだろうというところまで、彼の思索を進める力を、彼は生れながらにして持っていなかったのである。
 それ故、この場合、正隆にとって、母よりも、妻よりも、よき一人の友が生活の活力素になる筈であった。一人のよい友人が、彼の総ての経験と、周囲の不幸な誤謬とを、些細に解剖し、解体して、あらゆる不幸な偶然を取りのけた運命の大系を暗示しさえすれば、正隆はどうにか、生活の明るみの上に息を吐けたかも知れなかったのである。然し、どこにもそんな友人は見つからなかった。平常から、群を離れて強者のようにふるまう正隆は、自分の馬鹿を披瀝する者を持たなかった。人間がどこかに持つ共通の馬鹿を、いたわり合う人を持たなかった。従って、多くの同僚は、その翌日出された辞職届のことを知って、彼の物質的安定と、そのために許される我儘とを羨望したに止まっていた。或る者は、正隆の所謂お坊ちゃんを、世にも比類のない仕合わせとして、彼を祝福さえしたのである。
 この物質的に、彼があまり安穏であったということは、一面に正隆の身を自由に解放していると共に、他の一面では、彼をただ瞬間の激情に己を委せる弱者にしていた。
 若し、正隆が、役所から離れるということが、何等かの点で生活の不安を齎すものであったら、これほど、彼は無反省で、或る環境から自分を引離すことは出来ないだろう。出来なければ、従って、何等かの思考が費される。そこで彼は、自分の苦痛、その苦痛を齎した原因、等に就て、何か掴むことが出来たかも知れない。けれども、役所で受ける俸給などというものは、生活の大道に何の差も起さない境遇にある正隆は、単に役所を雑作なく罷《や》めたということと共に、同様の無省察で、自分の疑惑を肯定したことに、一層の不幸を持っているのである。
 彼の追憶は、それが追憶であるという事実に於て、多分の想像が加えられるのを免れない。現実の苦痛は、その結果のみを握って、原因を手の届かない彼方に置いているという点に於て、また、多くの推測と仮想とを含まずにはいられない。総てのことがただ抽象化されて、その抽象を左右する傾向が、ただ、正隆の気質にのみ動かされることは、結果として、正隆の求め得る結論以外のものは出て来よう筈がない。
 自分の正直な、真実な仕事が、劣等な疑と不公平な判断によって、現に、拒絶されたという事実は、翻って、妄想かも知れないと思いかけていた過去の、K県での経験までを、疑い得ない事実として、正隆を首肯させた。そうなると、彼の最初の踏み出しから、今日まで、正隆は、ただ不正の、悪策の的となっていたようなものなのではあるまいか。
 悪計を運用する台として、或る処へ運び出されたようなものである。その運び出す餌として、自分は、僅かな、然し力強い幸福を覗せられた。幸福を厭う人間が、この世に独りでもいるだろうか? 皆は幸福を求める。その皆の求めるものを自分が求めて、釣り出されたことは、自分としては自然である。が、相手にとって、自然であることを、係蹄に使うのは、或る警戒を与える策略よりも、数等卑劣である。正隆は、彼にとって、全くの不幸であった、人々の無責任によって、止途もなく疑の底に滑り込んだのである。
 彼は、先ずK県に於て、その発端を現した不吉を呪うべき運命が、着々とその確実な計画を遂行して、今日、第二段落の成功を納めたのだとほか思われなかった。
 等しく、それを自分が自分の心に経験したという点で、K県のことと、今度のこととは、正隆にとって、幻想と事実との差を持たなくなって来た。まして、静かに、魂を鎮めて、人間の一生を貫く、運命の方向と、その運命の大道に折々現れて来る不幸な錯誤、機会というものの不思議な影響などを考えることは出来なかった。正隆の見越す運命の終極は、恐るべきものであった。
 自分の性格のうちにある力の欠乏を知らず、また他人のうちにある同種の不完全さも思わない正隆は、全く日の目もない未来を予想して、そこに導こうとする運命、明かに、自分を嫉視する者共の手で繰られる運命を呪咀することほか知らなかったのである。
 斯様な正隆を取囲んで、最初、彼の真価を誤った人々は、勿論、没交渉であった。自分等の不真実を謝して、気の毒な彼を慰めようなどと思う細胞は、大きな頭の一隅にも持ってはいない。
 たとい、それほどの悪意はなかったにしろ、彼等によって、突転がされた正隆を受取って、母未亡人は、失望にがっかりとしながら、手のつけようも知らなかった。
 再度の失敗で、ひどく目算を破られたような口惜しさを感じながら、強いても、唯一の避難所である脳病に正隆を圧し込めた母未亡人は、正隆にとっては、何の慰めにもならない、身の辺りの手落ちない注意で、温めようとした。
 その様子を、静かに眺めながら、美くしい信子夫人は、良人の受けた疑いに、或る恥辱を感じると同時に、価値の見えざる下落を感じずにはいられなかったのである。
 信子夫人にとって、良人は尊敬すべきものであった。その良人が、何か厭わしい嫌疑を受けたということは、彼女の誇りを、むっとさせることである。栄達の見込みが確実らしく見えていた良人の、俄の失墜、顛落しつつ、男らしくもなくもがき叫びながら、ただ徒に、焦る彼を見ると、信子夫人は、最初に懸けられた疑を、確かりと否定することさえ、曖昧なものに思われて来たのである。
 良人を全部、信じ、肯定しきれない信子夫人は、心の中では、幸福な姉達の生活を比較しながら、あでやかな眉を顰めて、憐れな良人を眺めたのである。
 総ては、どこにも捌《は》け口のない濁流の渾沌さで彼の周囲に渦巻いた。
 正隆は自分の苦悶を、肯定してくれる者もなければ、また力強く否定して、鞭撻しようとしてくれる者もないのを発見した。妻も、母も、遠く、或は近いといっても
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