、仕事に勤しんだのである。
 当時、三十歳だった正隆は、ようよう光明に向って踏み出した生活の三足目で、自分を粉砕する襲撃を予期してはいなかった。予期出来なかったほど、正隆は、或る点からいえば正直になっていたのである。
 自信ある競技者のみが感じ得る楽しい、光輝ある緊張の連続で、いよいよ結果の発表されるべき日が来た。
 その日の帰途を想って、自ら微笑を禁じ得ないような心持になりながら、出勤した正隆は、自分の机に坐るか坐らないかに、課長室へ呼ばれた。彼は、勿論何の不安をも感じなかった。至極落付いていた。が、その落付いた、もう解りきっているという平気さの下に、嘘のいえない心臓を率直に鼓動させながら、正隆は厚い木の扉を開いて、半白の課長の面前に現れたのである。
「まあ、そこへでもおかけ下さい」
 機嫌のいい声で、朝の挨拶をして正隆に、傍の椅子を勧めると、課長は、暫く何か決心のつきかねた風で、頬杖を突いた片手を延して机の上を叩いていたが、いきなりその顔を挙げると、
「いや、どうもあの翻訳はお世話でした」
と云いながら、一寸頭を下げた。
 これは、唐突である。正隆は一寸返事を見出せないで次の言葉を待った。が、この予期しない発言の仕方で、正隆は、我知らず、おや変だな、と思わずにはいられなくなった。どこか、彼の思っていたものとは調子が違う。何をこれから云い出すのだろう。
 漠然とした不吉の予覚が、心臓をそろそろと堅くしそうになった正隆の面前で、平常の態度に返った課長は「ところで……」と云いながら身を正した。
 ところで……? 正隆は、思わず喉をゴクリと云わせた。
「ところで……あの結果ですが――。種々委員とも評議の結果、結局どうも、貴方にはお気の毒だが、真田君の方が定りそうな工合です。勿論、貴方が不出来だったという訳ではない、いや、寧ろ、お骨折で、却って立派に出来てはいる位なのだが――どうも、君も知っている通り、こういうことには種々の都合があるのでね。まあ、今の塩梅では真田君に行って貰うようになるらしいから、それを一寸、前もってお知らせした方が好いと思ったのです」
 そう云い終って、また頬杖を突いた課長を凝視しながら、正隆は、思わず自分の耳を疑った。真田が行く……? 真田と――。変だな、そんなことは不可能だ、第一あんな学問もない男が――何かの間違いだろう……。
「真田君――あの、真田猛君ですか、あの人が行くのですか?」
という反問が、殆ど無自覚の裡に、正隆の口を突いて出た。
「ええそうです、あの真田君です」
 然し、彼の老眼の前で、俄にサッと血の気を失った正隆の顔を見ると、何でもないという風だった課長は、急に言葉をついだ。
「それあ、君もここまでやって残念でしょう。それは私も察しる。が、なにしろ、場合が場合だから、今度は、真田君に譲ってやり給え。まだ君なんか若いんだから、先が緩《ゆっく》りしている。あわてないでも好いでしょう。それに君は、家庭もよし、歴《れっき》とした――」
 課長は、ここで何故か一寸厭な顔をした。
「兄《あに》さんも持っているのだから――」
「家庭が好い? 兄貴がある? 何を云うのか、それとこれとは、全然異った問題ではないか、そんなことで、左右されることではないのだ。途方もない、何を感違いしているのだ。驢馬!」
 正隆は、唇を噛みながら、いまいましげに、額を逆に撫で上げて、ジロリと平気に見える老人の顔を睨み据えた。
 然し――。
 正隆は、第一、何故自分が除《は》ねられて、あんな真田が選ばれたのか、その理由を知らないでは納得出来ない心持がした。
 自分は、あんなに真剣にやったのじゃあないか、自分は、あんなに、あんなに――。
 正隆は、急にゲッソリと腹の力が抜けて、妙に震える力の震動が胸元に突掛って来るのを感じた。
 あんなに――希望していたのではないか! もう年を取って、半ば老耄した課長なんか、勿論誰が行こうが関ったことではないだろう、然し、自分には違う。そんなに雑作なく、片づけられることでは、ないのだ――。
「それでは――」
 強いても、激情を圧えた静かな口調で、こう切出すのは、正隆にとって、最大限の努力であった。三年前の彼なら、いきなり、そんなひどいことがあるものか! と怒鳴らずにはいられなかっただろう、正隆は、いつか身に着いた、経験の、不可思議な力で、グッと燃える火の玉を飲み込んだのである。
「それでは――真田君が選ばれた理由だけを、洩して戴くわけには行きますまいか、自分の――自分の参考になるとも思いますから」
 然し、官僚の曖昧に馴れきった課長は、種々遁辞を構えて、説明しないのみならず、数度正隆が圧迫《せま》って、説明を求めると、最後に、彼は氷のような冷淡な表情で、
「そんなに追究しない方が、君のためだろう、自分で考えて見給え。落付いて考えて見れば自分で解ることなのだ、私はもう御免を蒙る――」
と云いきったきり、もう再び正隆の方へ振向きもしなかった。最後の言葉を、課長は、確信のある者の壮重と、威圧とで断言したのである。
 この一句が、正隆の心じゅうを、グンと小突き上げた。
 君のためだろう、とは何事だ!
 正隆は、思わず激しい音を立てて、座から立ち上った。が目の下に、半ば禿げた課長の頭を見ると、彼は、俄に淋しい、生理的に痛苦を感じるような気分に掴れた。
 憎みとも、恥辱とも、口惜しさとも、名状し難い感情が、盲目《めくら》のように突掛って来る。グリグリが出来たような、彼の目の前には、今頃はもう有頂天の大喜びで、得意そうに仲間中を触れ廻って、自分の成功を祝われているだろう真田の姿が、幻のように浮び上って来た。
 その想像は、彼に眩暈《めまい》を起させる。けれども、思わずにはいられない。
 少し膝が曲った細いズボンを、小刻みにチョコチョコと歩きながら、真中から分けた髪を押え押え、へらへらと笑う真田。
 たださえ軽薄な真田が、面白半分の煽てに乗って、天地唯独りの俊才を気取りながら、どうだと鼻を蠢《うご》めかせる様子を考えると、想っただけで、正隆はほんとに、嘔きたいような気分になって来た。
 あんなに確実そうに見え、見えたばかりか、同僚の多くも、自分に当然の結果として、選抜を予期していたのに、あの真田が、自分に代るということは、一体何事だろう。
 平常から、おべんちゃらな男として、数にも上せなかった彼に、自分の座を横領されたことは、正隆にとって、決して単純な失望には止まらない。
 今までは、創世後八日目の宇宙のように、晴々と、爽やかに日光の降り灌《そそ》いでいた地球は、俄に、正隆のこの眼の前で頓死してしまったのである。

        十

 それは実際、総てのために悲しむべき、一つの誤謬であった。
 正隆が、外国語に、秀でた天分を持っているということをのみ強調して、考えの中に置いていた人々は、彼が翻訳した文章を見て、不審を起した。
 彼が、外国語にこそ精通しておれ、邦文、しかも当時行われていた面倒な漢文的な文章を、これほど立派に駆使することは意外だというのである。
 人間が、意外な感に強く打たれたとき、決して平常の冷静を保っているものではない。少くとも、その瞬間だけでも、何等かの不安定な動揺を感じずにはいられない。その動揺の、落付こうとする方向を、いかなる形式に於ても暗示するヒントが、やがて、その「意外」の種類を決定するものなのではないだろうか。
 この場合では、正隆に対する徳義上の疑問が、落付きを与える一つの重しとなったのである。即ち、外国語には通じている正隆が、不完全な日本文の弱点を補うために、彼の長兄である正則の助力を仰いで置きながら、それをそのまま知らん顔で提出したのではあるまいか、というのである。
 勿論、それはありそうなことで、ないとはいえなかった。正則は、素人でこそあれ、漢詩をよく作ることで、一部には著名であった。その兄を持つ正隆が、若し彼を強請《せび》って書かせたとすれば、この位の文章位、何の苦もなく出来《でか》されてしまう筈なのである。
 従って、ありそうなこととして、この疑問が、皆の胸に湧いたことは、理由のないことではなかっただろう、然し、漠然としているにも拘らず、人間の心に不思議な昏迷を与えるこの感じは、危険なものである。人は、なかなかその妙な暗示から解放されることが出来ない。正隆が、二人掛りで遣って置いて、そっと口を拭っているのではあるまいかという、最初は極く淡い、互に云うのさえ憚られるようなものであった一種のアンティシペーションは、討議、評議と時を経て行くうちに、何時ともなく皆の心の中で、濃度を増して、終には動かすべからざる疑問となってしまったのである。
 疑い出して見ると、事は紛糾するばかりである。どこにも、決定を与えるべき証拠がない。ああだろう、こうだろうと云っているうちに、人は不安にならずにはいられない。そういう結論の与えられない疑の中を這い廻っている自分自身が、一時《いっとき》も堪らないほど、厭に、不安になって来る。そして、結局は、どうでも好い、早く何等かに片をつけてしまったら好いではないかという心持に、なって来るのである。
 こういう場合、与えられる決定が、それを受ける者を考の中心に置いていないことは、明かである。自分の不安を追うための決定である。自分に与える回答である。従って、最も平明な、最も単純なものを「よし」とすることは免れ得ないことなのである。
 正隆の仕事を挾んで向い合った時にも、皆が知らずに、皆がこんな心持になっていた。そして、掴みどころのない、いざこざの末、
「そんな疑いがあるのなら、一層、面倒のない方に極めた方が、一番簡明でいいじゃあないか」
という発言の下に、出来栄としては数等劣った、劣っているが故に、真田の実力であるに違いない仕事を、採決することになってしまったのである。
 洋行とか留学とかいうことが、直接自分達の生活とは、何の関係も持っていない者達は、悪意のない無関心で、評議の材料を取扱ったのだろう。
 並べられた、二百枚近い紙の背後に、どれほど熱した魂が、彼等の指を見守っているか、せめてただの一度でも考えて見ようともしない人々は、ただ、文字を並べた紙を綴じた物、その「物」によって、留学という、一種の概念の傾きを決定しようとしたのである。
 けれども、正隆にとって、二百枚の紙は、決してそれほど軽く見られるものではなかった。その紙背に、あらゆる彼の希望が懸っていた。父の持つ本能的な愛、良人の持つ無自覚な妻への誇、よき生活への憧憬、その他、順調に流れた数年の後、今彼の胸に暖く芽を育て始めた、総ての「よき願い」がどっしりと重く裏づけられていたのである。
 然し、始め、彼の仕事が拒絶された理由を知らなかった時の正隆の失望は、寧ろ感傷的な甘みをどこやらに漂わせたものであった。
 正隆は、ほんとに落胆したのだ。ほんとに失望したのだ。彼は勿論真田を羨望した。あんな、猪口才《ちょこざい》野郎がと云って、口惜し紛れの悪態も吐いた。今度こそ見ろ! と自分の不運《アンラッキー》を呪いもした。けれども、真田と自分との位置を転換させた何かの理由に対しては、一種の敬遠を抱かずにはいられなかった。
 あんなに見えていながら、いざという土俵際で、巧く自分に背負い投げを食わせた、真田奴! その呪咀の中には、心の底で一種の謙譲が保たれていた。彼がいくら、喚いても、怒鳴っても厳然と立って抜くべからざる壁、その壁は癪には触るが正当なものだ、というような、意識が、正隆の心の奥の奥に流れていたのである。
 自負の強い彼は、家族に対しても、じっとおとなしくはしていられない。罵りながら、口では、「何が何だか分るもんか」と云いながら、正隆は、まだ先を見ていた。今度の意外な当外れは、単に機会的な不運《アンラッキー》で、一生を通して、目に見えない彼方から自分を大きく支配する運命の狂いだとは思っていなかった。運命《デスティネー》と、運《ラック》とは違う。彼は、動く、消える、そして、或る程度までは自分で掌
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