た笑を忘れずに、
「まあお若い方は、理屈っぽいこと、何でもない、ほんのお口直しか、お口穢しでございますわ」
「そうですか――然し、奥さん、奥さんは、私がこんな作法を知らないことは、始めから御承知なんでしょう。御承知でありながら、何故、私の知らない、知らないから飲めもしないものを、下さるのですか?」
 ここまで来ると、さすがの副島夫人も顔の色を変えた。正隆を見た眼を反らして、凝と彼方を見ていた夫人は、暫くすると、殆ど、命令するように、はっきりとした口調で、
「どうも、お気の毒を致しました」
「それでは、失礼でございますが、御免を蒙って、貴方」
 夫人は、眉を上げて、駭《おどろ》きと不快で、度を失っている良人を見た。
「お廻し下さいませ」
 この夫人の態度が、正隆の言葉に解くことの出来ない封印をしてしまった。
 その座敷に戻りはしても、もう瞳も定まらない正隆は、碌な挨拶もしないで、飛び出してしまった。この不意の出来事で、最初、副島氏が漠然と胸に持っていた、保養の勧告は、緒口も出ないで、立ち消えとなったのである。
 温い仕合わせな屋根の下から飛出して、暗い、ガランとした夜を歩きながら、正隆は泣いても足りない気分になっていた。
 今まで、何か形の纏らない気体のように、ただ体中に瀰漫《びまん》していた、当のない敵意は、この思いがけない出来事に依って、俄に確かりと凝り固まったような心持もする。その、大きな、むかむかと膨れ上って、喉元まで窒め上げる敵意は、殆ど、生理的な苦痛を伴って、正隆の薄い骨と皮との間を、疼《うず》き廻るのである。
 あのようなとっさの間にさえ、突掛って行く相手を、副島氏ではない、夫人に選ぶほどの、敏感を持っている正隆は、あの場合、多くの女性がそうである通り、直き涙を眼一杯に溜た夫人が、しおらしくうなだれでもしてくれたなら、結果は、遙かに容易なものであったことを知っていた。
 そうすれば、彼はきっと、もっとしつこく、悪どい厭味は並べるだろうが、余後の気分は、遙に自由であり、且つ、淡い慰藉さえ感じ得たかも知れないのである。
 然し、息子ほどの正隆にすねられて、他愛なく涙ぐむほど、副島夫人の経て来た、年は、単純なものではない。卑屈でもない。従って、一目《いちもく》も二目《にもく》も下に扱われたという、取消し難い自覚が、一層、正隆の敵意を助長させる。彼等が、何等かの企計を持ったに違いないことを、夫人の平然さで裏書きされたように、思わずにはいられないのである。

        六

 まるで、ぷすぷすと燃え上らずに煙を吐くような焦躁に、胸一杯を窒らせながら、正隆は翌朝学校に出掛けた。
 出掛けて見ると、正隆は、自分の顔を見る総ての者共は、今朝は、殊更、変な意味ありげな眼付をすることに気が附いた。
 それ等の眼は、一つ洩さず、彼の姿を見付けた拍子に、
「おや! いるな」
という表情を浮べて、さも面白そうにパッと拡がる。それから或る者は、詰らなそうな鼻声で、
「フム、まだ元の通りかい」
と呟きながら、一寸、目配ばせをする。が、或る者は、何か、ひどく馬鹿にしたような、不平な表情を浮べて、肩を怒らせながら、拳を突出すような、素振りをする、心持がある。正隆の眼から見ると、皆が皆、昨夜のことを知っていて、知っている癖にまた皆が皆、知らん顔を装って、ペッと地面に唾を吐いているように思われるのである。
 彼は、誰の顔を見ても、擲《ぶ》ちたいような衝動を感じた。誰の眼を見ても、小突きたかった。自分の心持を、自分でも恐しくなって、暫くすると、正隆は何という当もなく、裏の薬草園の方へ歩き出した。
 もう末枯《すが》れて、花もない園には、柔かい、お婆さんのような芝生が、淡黄く拡がって、横ぎる者を慰める。正隆は、その温順な芝生を心に描きながら、歩き出したのである。
 ところが、狭い小使部屋の傍を抜けて、数十歩歩みを運んでいるうちに、正隆は、自分の目差していた方向に、思い掛けぬ独逸語の音読を聞いて、耳を欹《そばだ》てた。
 重い、彼の国の巖のような発音が、足先をひやりとさせる清い、透明な空気の中に、高く響く。きっと学生が、こっそり予習でもしているのだろうと思いながら近寄って行った正隆は、案外、それは、垣内という、教師の一人の声だと知って、一層の好奇心を煽られた。そして、我知らずそこに立ち止まった。
 年齢も彼とあまり違わない、正直な垣内を、正隆は、他の誰より、浅いうちにも深く交際していたのである。程度に於て、比較的親しいとはいいながら、まだ、一度もその垣内の読む独逸語を聞いたことのなかった彼は、丁度自信ある歌手が、後進の独唱を審判するような、愛と侮蔑の半ばした心持で耳を傾けた。
 けれども、数句を聞いているうちに、正隆の唇は、自然と綻《ほころ》びて来た。垣内が読んでいるのは、教科書なのだ。
 それも、現に今朝、彼が、噛み煙草でも、吐きすてるような苦々しさで教えて来た、予科の教科書ではないか。
 子供らしい!
 なにしに、あんな子供だましみたいな文句を、声高々と読んでいるのだろう、自慢なのか? 肩幅の広い、土地の者の垣内の姿を思い浮べると、その滑稽な対照が、思わず彼を笑わせる。正隆は、そろそろと忍び足で近寄った。
 不意を襲って、正直な垣内を、真赤に恐縮させたい悪戯心が、フイと彼の心に萌したのである。
 然し、正隆の忍び足は、五歩と続かなかった。まるで、彼が動き出したのを合図のようにして、読むのを止めた垣内の声を受けて、今度は、更に意外なもう一つの声が質問をし始めた。
 声は、紛う方もない園田ではないか、園田! 今朝、正隆が教えた組の中でも、おとなしい学生として、非難のしようもなく思われていた、その園田が、今、ここにいる――。
 正隆は、一寸判断がつきかねた。この学生と垣内とを、どう結び付くべきなのか、けれども、少年の口から洩れる質問を、全身の注意で聞いて見ると、正隆は、火の玉のようになった。
 少年は、今朝、授業時間に、正隆に向って質ねたと同じ箇処を、また繰返して、垣内に質問していたのである。
 それを知ると、もう正隆の頭は血迷った。自分が、どんな返答を与えたか、ということなどは、思おうともしないで拳を握った。
 何という奴だ!
 自分が、彼の教師でありながら、その自分を出し抜いて、こっそり陰へ廻って、こんな、青二才の垣内なんかに、さも、あんな教師は役に立たぬといったらしく阿諛《おべっか》を使う、誰に教った? 犬め!
 よろけるように、いきなり樹蔭から姿を現わした正隆は、もう一度、「間牒《いぬ》め!」と叫びながら、獣のような素早さで、園田の頭を目がけて突掛った。
 ポックリと、黒くて丸い少年の頭が、澄んだ中空に、何気なく浮上っているのさえ、正隆には、わざと空惚けて、やい! と云っているように見える。ジロリと憎々しく、その小さい頭に眼をくれた彼は、必死になって止めに入った垣内の力で、引分けられるまで少年の頭にしがみついた。野獣のような貪婪さで目を眩まされた正隆は、強い垣内の臂力に抱き竦められて、膏汗《あぶらあせ》を流しながら、身を震わせた。
 極度な亢奮で、僅かほかない精力を、最後の一溜まで失った彼は、顫えが納まると一緒に、激しい、神経質の嘔気を催して来た。
 病気になった野良犬のように、舌を吐いて、苦しい空嘔《からえずき》をする正隆は、変に引吊った眼でそっぽを見据えながら、ただ生理的の苦痛以外の何物をも感じ得ないほど、疲憊してしまった。両手を、大きな、温い垣内の掌の中に握られながら、横坐りに足を投げ出した正隆は、妙な悪寒が、体中を嘗め廻すような不気味さを感じた。

 それから、何秒経ったのか、何分経ったのか、或はまた幾日経過したのか。
 俄に、はっきりと眼を見開いた正隆が、四辺《あたり》を眺め廻した時には、いつの間にか家に帰って、見馴れた調度に、とり繞れながら、床に就いていた。
 世界が夜になっている。微細な、潤った夜の胞子の間を縫って、卵色の燈火が瞬いている。
 何時の晩なのだろう。
 正隆は丁度昼寝をし過した子供のような、間誤付を感じた。
 何時の晩なのだろう、今日の晩なのか、それとも、もう明日の晩になったのだろうか、……水が飲みたい、喉が乾いた。
 最後の一句を、漸く声に出して云うと、夜着の裾の方で、誰かがむずむずと動く気勢《けはい》がした、その瞬間、正隆は永年の習慣から、ふとそれが、切下げ髪の母未亡人であるような気がした。
「水……」
 黙ってコップを差出した人の顔を見ると、それはここにいるとは思わなかった垣内である。正隆は怪訝《けげん》な顔をして眼瞬きをした。
「おい……」
「どうしたね、気分は少しは好くなったか?」
「きぶんは、すこしは、よくなったか……?」
 正隆は、どこか寝ぼけたようで、はっきりしない頭を、強いて掻き起すようにしながら、垣内の言葉をそのまま、書取《デクテイション》した。
「気分が悪い? それじゃあ俺は病気なのだろうか、何時から? どこが悪い? 使用がないな、よほど悪いのかな、垣内……家の婆さんはどうしたんだ。陰気だ、これじゃあいけない……どうかしよう、然し……それにしても……」
 グヮン、グヮンと激しい耳鳴りがし始めて、正隆はまた、ぼんやりとして、何か不仕合わせで頼りない気がする薄暗闇の中へ、ずるずると滑り込んで行った。

 満《まる》二日経って、正隆はようよう平常の頭脳を恢復した。恢復したとはいいながら、その頭脳の存在は、正隆にとって悩ましいものである。床に就て、夜も昼もただぼんやりと、取止めのない影のような気分の錯綜のみを感じているうちは、彼の不幸な魂にとって、またと得られない休安であった。絶えず朝と晩とを徹して彼を虐げるあらゆる不安も、焦躁も、冷笑も、その時だけは、一面の混沌の裡に溶け込んでいたのである。けれども、頭が目覚めて、魔術的な細胞が呼吸をし始めると、正隆の心には、幾日かの休養で、更に精力を増進したようにさえ見える、尖耳《とがりみみ》の小悪魔が、恐るべき勢で活動し始めた。それは、全く、悪魔の啓示といっても誇張ではないほど、正隆の頭は敏活に、蒼白い光の尾を引きながら、暗黒の裡を、飛翔した。
 もう学校へも出ず、散歩さえ止めた彼は、まるで、大発見の手掛りを得でもした、科学者のような根気で、暗示《ヒント》から暗示へと、手繰り寄り手繰り寄り、もうクライマックスへ来たらしく見える、「悪計」の発掘に取りかかったのである。ほんとに、飢え渇いて、ガツガツと汗を掻きながら進行した正隆は、終に或る、系統的な、企図ともいうべきものの、正体を掴み得た。
 その分解に従うと、最初、彼がこのK県に寄来された迄には、何の計画も、悪意も籠ってはいなかったのだ。
 それが、此方へ来て、稍々暫く経ってから、或る人の手が徐ろに動き出した。それは、副島氏である。
 一口にいってしまえば、副島氏は自分を邪魔にしていたのだ。早く追い払いたかったのだ。けれども、相当に学識もあり、美貌でもあり、また生れのよい、彼とは特殊な関係で繋がった自分を、そう理由にならない口実で、追放することは出来ない。そこで、陰から先ず学生を唆《そそのか》して自分を虐待させながら、一方、彼自身は、飽くまでも親切さを装って、食事に招待したのだ。
 招待して置いて、散々楽しませ、悦ばせた揚句、あんな赤恥を晒させることは、而も、美くしい夫人まで使って恥を掻かせることは、勿論、直接法に怒らせるよりは、効果が多いのは知れきっているではないか。
「南瓜頭《ペンプキンヘッド》!」
 そうして置いて、垣内を、あの垣内を何時の間にか手なずけて置いて、丁度見計らった頃を狙って、園田との芝居をさせたに違いないと、正隆は決定したのである。
 平常は、あんなに温順で、教室などでは、地蜂のような少年に混って、まるでいるかいないか分らないように恐縮している園田までが、一緒になって自分に懸って来るかと思うと、正隆は、血の煮えるような憤りを感じる。こんな計画を立て、追い出て行く自分を人々は待ってい
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