るのだ。
 正隆は、みみず腫れに膨れ上った手の甲を撫でながら、あらゆる人々に向って、苦艾《にがよもぎ》のような嘲笑を投げようとした。が、突然高い頭の小さい少年の像《イメージ》が心に浮び上ると一緒に、正隆は、病気のような心細さを感じ始めた。
 何か急に、ポカンと胸のしんが抜けて、がらん洞になった心の洞穴を、寒い、冷い霧雨を含んだ風が、スースー、スースーと風音を立てながら、吹き抜けて行くような淋しさなのである。
 その筒抜ける風に煽られながら、正隆は、自分の心も体も、めちゃめちゃになって行くような気分になり始めた。周囲の者達が可哀そうなのではない。勿論。神かけて、あんな奴! けれども、心が悲しいのだ。何かひどく惨めな、可哀そうな気分が突上げて来て、眼に涙さえ浮ませる。寂しい、気の毒な――誰なのだろう?
 自分の涙に度を失った鼠のように、正隆はきょろきょろと四辺を見廻した。目の届く限りには、人影さえも動いていなかった。
 相変らず、小じんまりと、婦人室のように飾られた部屋の中に、塵《ごみ》のような自分一人が、ほんとの一人ぽっちで、ポツネンと据っているのに気が付くと、正隆は、可哀そうなのは、自分がこうやって、涙までこぼして劬《いた》わってやっているのは、結局彼自身なのだ、というところへ行着いたのである。
「そうだ、俺なのだ。俺自身が、我ながら可哀そうになって来たのだ」
 俺が可哀そうだと思い出すと、正隆は、止途のない感傷に陥った。
 自分が、来たその時まで持っていた希望は、どこへ行ったのか。
 あれほど明るく、輝やいて見えた、前途が、こんな暗闇に塗り消されようと、誰が思って、こんな遠い田舎まで来るだろう。若い、向上心に満ち、総ての点に完備した自分が、これほどの悪計に、悩まされなければならないということ。矢張り、母未亡人が、かねがね話した通り、自分の境遇と、天分を羨望するあまりに、こんな計画を立てたのに違いないのだ。
 それ以外の原因は、何があるだろう。ただそれのみなのだ。それに、違いないのである。
 然し、だんだんこうやって進んで来た正隆は、ここまで来ると、或る得意に似た感情が、そろそろと悲しみを消し始めたのに心付いた。
 皆は、ああやって自分を酷《いじ》めたと思っているのだろう。然し、決してそうではない。もう一歩進めて考えて見ると、却って、彼等が、自分の力に苦しまされているのではあるまいか。
 彼等にとって、自分は重荷なのだ、目先にいられると、絶えず圧迫を感じずにはいられない。それで追い出そうとする。追い出したいと思いながら、断然と、それを口に出しても云えない者が、どうして、優者らしい態度だといえるだろう。つまり、自分は勝っているのだ。最後に於て勝利を得るのは、この、酷めたと思われている、自分以外の何人でもない筈なのである。
 そう思い出して見ると、正隆は、もう何も、こんな田舎の、古びた農学校なぞに未練を持つべき理由を、何処の隅にも発見しなかった。野蛮人達の、果しもつかない小競合《こぜりあい》の中に入って、争うのも惨めな位置などを眼がけるには、もう一寸自分は大きく生れ付いている筈だ。
 もっと素晴らしい未来が、自分には保留《レザーブ》されているではないか。
 正隆は立ち上って、丘児帯の後に、双手を挾みながら、部屋中を王者のように緩々と歩み廻った。そして、半年近い過去を、夢のように、それも馬鹿馬鹿しい夢を、自ら顧みて忍び笑いをするように、くすくすと肩を竦ませて、舌を出した。

        七

 こんなにして、突然豚にでもくれるように、心の中で自分の位置を垣内の、四角な顔に擲きつけた正隆は、その晩手荷物も持たないで、K県を立ってしまった。
 中二日置いた靄《もや》の濃い冬の朝、膏と油煙で黒光る顔を洗いもせずに、九段の家の敷居を跨いだ彼は、もうそれきり、二度とK県へ、振向こうともしなかった。
 僅か半年とはいいながら、充分に物凄まじかった正隆の教員生活は、最後の、半ば気違いになった大飛躍で、遠い、遠い彼方まで、放擲されてしまったのである。
 副島氏等からの音信によって、正隆は、もう立派な病人だと思い込んだ未亡人は、ひたすら、彼の恢復を希うばかりで、今更、彼を元の位置迄送り返そうなどとは、夢にも思ってはいなかった。
 そればかりでなく、未亡人は、丁度注意深い獣使いが、傷に触って、狂う獣を一層荒れさせまいと用心するように、どんな場合にでも、決してK県の話だけは、鬼門にして触れなかった。
 また一方からいえば、あれほどの希望と、誇りとを負わせて送り出した彼女は、この常軌を逸した彼の帰京を、病気にでも理由つけて置かなければ、到底堪らないほどの、失望や、間の悪さを感じるのだったろう。
 従って、かなりまで強調された「病人」の特権によって、正隆は、質問を受けないのみならず、自分自身も、何の反省や自責で、苦しめられずに済んだ。
 彼は、久し振りで悠々と、馴染み深い環境の中に身を寝そべらせて、居睡ったのである。
 けれども、おいおい日が経つに連れて、心の落付きが戻ると共に、K県での記憶は、何かにつけて、正隆の眼の前に現れた。
 赤坊の時から見なれた母未亡人が、相変らず、黒紋羽二重の被布に、浅黄の襟をかけて、小ぜわしく廊下を歩み廻るのを眺めながら、朝夕、細かな、女性的な情緒に抱擁されている今の正隆にとって、K県の思い出は、我ながら、奇怪なものになってきたのである。
 思い返して見ると、自分がほんとに神経衰弱だったから、あれほど真暗闇の苦痛を味ったのか、それとも、事実に於て、周囲がそれほど惨虐であったのかという境は、いつも際どいところで、ぼんやりとしている。どちらが、どうだったとも決定しかねる心持になって来るのである。
 けれども、あれほどの苦痛の原因を、ただ、俺が神経衰弱だったからなのだ、といって片付けることは、正隆の自尊心が承知しなかった。
 若しそれを承認すれば、結局、悪い、捻れたのは、自分一人で、他の人々は、皆よい、完全な、親切な人々だったのだと、いうことになるではないか。
「そんなのは、俺はいやだ」
 正隆は、我儘らしく首を振った。
 が、それならば、周囲にいた、あらゆる人々は、校長から給仕に到るまで、皆悪人ばかりだったのか、学生は皆、買収されていたのか、といえば、さすがに、うんそうだとも、とは云いかねる何ものかが、心の底に頭をもたげて来るのである。
 小さい鉢植えの紅梅を綻ばせながら、霜除けをした芭蕉の影を斜に、白い障子に写した朗かな日を背に受けて、我ともなくうつらうつらと思索の緒を辿る正隆は、ここまで来ると何時も、闇で見た幽霊を、追懐するような、漠然たる気分になるのである。
 幽霊を、きっと見たには違いない気がするのだ。若し、相貌の詳細《ディテール》を説明しろと云われれば、今直ぐにでも出来るのだ。けれども、いざ、それなら、ほんとにあそこの壁に立っていたのかと詰め寄せられると、決定的な返事には窮するような心持なのである。
 そうなると、正隆の眼前に拡がった濃霧《ミスト》は一層深くなって、終には、K県に於ける農学校そのものの存在さえ、怪しくなって来るのである。秩序立てて考えて見れば見るほど、自分の立場が不思議な、自分で判断の下せないものになって来るのを感づいた正隆は、或る程度まで行くと、もうぴったりと鑿穿の足を止めてしまった。
 我にも、人にも、明答の出来ない記憶の残滓を、苦笑と共に、そっと生活の淀みに埋めて、正隆は、翌年の春早く、「お信様」と呼ばれる婦人と結婚したのである。
 信子の母親は、佐々未亡人とは幼友達の間柄であった。
 およしさんおよしさんといって遊んだ美しい人が、大蔵省の地位の高い官吏と結婚して生れた末娘の信子は、三四人ある女同胞の中で、最も秀れた美貌を持っていた。それのみならず、その当時としては最高の教育を授けられて、鋭く利く目端しを、おとなしく古風な礼儀作法に包んだ彼女の趣が、先ず佐々未亡人の趣味を満足させたのである。
 正隆の脳病には、何より生活の変更が第一だと心づいて、可愛い子供の病気に使う適薬を探すような熱中さで、相当の婦人を物色した未亡人は、選択を正隆に委せる心持は持っていなかった。
 嫁という者を、奇妙な、良人と姑との共有者のような感じを漠然と心の奥に抱いている彼女は、女の子を育てたことのない好奇心に手伝われて、自分の趣味を第一に、標準とした。それに、可愛い正隆は、自分の眼鏡にかなった者を、拒絶する筈はないという自信で、かなりまで独断で事を進めた未亡人は、いざという最後の一点まで来て、事実を正隆に洩したのである。
 女性に対する神秘さを失って、結婚などということを、彼の年齢に比較すると、想像以上の現実さで考えていた正隆は、美しくもない婦人を貰って、義務を負わされる生活は、堪らないと思っていた。
 それで、母未亡人が、最初にそろそろと口を切り出した時にも、彼は例の通り鼻であしらって、どうでも好いという表情をしながら、煙草をふかしていた。
 けれども、自信のあるらしい母未亡人は、何か楽しい詭計を持つ者のように微笑みながら、
「正隆や、お前ほんとにどうでも好いとお云いなのかえ。好い縁を取逃して、後で口惜しがったって、私の知ったことじゃありませんよ」
と云いながら、わざと紙に包んだ写真を膝の上でひけらかした。それに釣られて、思わず、
「一寸お見せなさい」
と云って手を延した正隆は、紙を開いて中を見ると、一目で、これは! という顔をせずにはいられなかった。
 それほど、中の婦人は美しかった。その美しさも、数年間、彼が胸に抱いていた、その型通りの美である。上品でありながら、飽くまでも、瀟洒でなければならないという、彼の条件を知って生れて来た者ででもあるかのように、その立姿は冴え渡って、すっきりとしている。しかもそれが、高槻信と自署されているのを見て、正隆は思わず、何物かに胸を衝かれたような心持がした。
 ただ、美くしい、ただ、素晴しい婦人として、彼方に眺めていた彼の観賞眼は、この三つの文字で俄に、その視線の距離を縮めてしまった。焦点が、グッと動いて心の真正面に移って来たのである。
 子供の時分、よく母未亡人に連れられて遊びに行った、あの築山のある、泉水に緋鯉が泳いでいた家に、こんな娘が住んでいるのかと思うと、正隆は一種不可解な、謎を感じずにはいられなかったのである。
 もう、二十にもなっているのなら、自分とは、たった五つ六つの違いである。
 まだ漸く七つか八つだった自分が、
「おばちゃん、今日は」
と云いながら、紫|天鵞絨《ビロード》の大黒帽子の頭を可愛く下げたその時分に、多分は、ろくに歩けもしない赤坊の信子が、母親の膝にでも抱かれて自分を見ていたのかと思うと、正隆の胸には、ついぞ湧いたことのない、一種の懐しさが後から後からと湧き上って来た。その懐しさも、曾て彼が一度ならず経験した種類のものとはどこか異ったところがある。
 もっとあどけない。もっと、色が、ほんのりとした桃色である。がそれにも拘らず、その桃色は、未来と過去とを貫いて、同じ桃色をほんのりと漂わせている、いたのだ、これからもいるだろうというような心持のするものである。
 それが、愛と呼ぶべきものなのか、或は、所謂縁というべきものなのか、正隆に区別はつけられなかった。
 その時分の教育で、愛の本質などということに就てかれこれいうより、先ず美貌を望む正隆は、よし彼女が、千里彼方の見知らぬ国の者であろうと、その結婚を拒みはしなかったであろう。彼が、満されない希望に終りそうな不安を持たぬでもなかった、その美が与えられるということに加えて、親と親との関係は、他人とはいいながら、幾何かの接近を両者の間に持っている。正隆は、どこにも非の打ちどころがないと思った。非の打ちどころがないばかりか、もう二度とは恵まれない幸福であるという気さえする。結婚などというものは――と、小鼻に皺を寄せていた正隆は、平常の冷淡さを、臆面もなく顛倒させてしまった。
 彼は、良人として自
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング