を取ることが、不可能な境遇の差と、経験の差から、殆ど、伯父に対する程度の、関係ほか持ってはいなかった。それ故、正隆は、この一点のみを強調して疑惑を進めて行くと、もう一寸の、際どい処で、最後の結論が引出されそうな処まで、深入りをして行くのである。血族関係で結び合わされた二人の人間が、相反目し合った場合の、惨憺たる、悪どい争闘の歴史を拡げて見ると、正隆は、息が窒《つま》りそうな物凄い恐怖を抱かずにはいられなかった。それと同時に、それがあまり恐しいことであるがため、それがあまり浅間しいことであるが故に、却って、自分の運命に現われて来そうな心持さえする。
 どうだろう、ほんとに、兄、兄貴なのだろうか。
 正隆は、我にもなく溜息を吐くのである。
 けれども、正隆の目前に、まざまざと浮んで来る長兄の、彼とは正反対に分厚な、正直そうに丸い、微笑に満ちた表情を想うと、彼は、決定しかねる。
 亡父に生写しだといわれる中年の、成功と、愛とで寛大に広がった額の所有者である長兄の、見えない宙に、どっしりと据った像を取り囲んで、やや暫く徘徊する正隆の、怨霊のような疑いは、もう一息という処で、いつも、動し得ない何物かにぶつかって引退る。その敗北を、喜びと安堵と、半ばの口惜しさに見返りながら、蛇の頭は、またするすると、第三の人影に窺い寄ろうとするのである。
 このようにして、日に幾度となく這い廻る、正隆の模索は、結局、幾百度繰返しても、要するに模索という程度を越すことはなかった。それに拘らず、疑わずにはいられない彼は、探究の失敗で、懐疑の根を洗われてしまえない彼は、さんざん彷徨《さまよ》い歩いた末に、いつも定って、何か非常に不確《インデフィニット》な、漠然とした一種の人格が、自分を絶えず付け狙って、悪意の籠った羂《わな》を張っているに違いない、という処に落付くのである。
 その不思議な力を持った者は、決して、単純に運命とは呼ばれなかった。自分の幸福なるべき運命の大道に、邪魔を出す、他の何人かである。明に人格である。
 同僚や、生徒の彼方に身を潜ばせて、巧に不幸の糸を引く何者か、運命的な人格なのである。
 正隆は、その、彼の前に朦朧《もうろう》と現われた、悪意の妖魔に向って、居直ったのである。
 正隆は、自分が不幸なのも、他人が不幸なのも知り抜いている。然し、その見えない何人かの悪策に負けて引下るものかという反抗が起った。自分を取囲む総ての者は、何等かの意味に於て、その影の人の暗示を受けている。誰も、その者自身ではない。が、誰かがその者の一部となっている。
 正隆は、我と他人《ひと》に向って、
「どうでもしろ」
 という、捨科白《すてぜりふ》を投げたのである。
 自暴自棄な捨科白を投げながら、正隆の想像の裡には、ふと、係蹄《わな》に懸った狼と、半狂乱で取組み合っている猟師の姿が、浮み上った。
 積った雪の深みに懸けた係蹄に、何も知らない狼が、餌を漁りに来て足を噛まれたのだ。樹蔭で様子を窺っていた猟師は、旨いぞ! と云って手を打っただろう。
 けれども、いざ手取りにしようと掛って見ると、命がけで飛び懸って来た牙に捕えられて、思わず同じ係蹄に転り込んだ猟師が、泣きながら、叫喚《さけ》びながら、獣と人間との血を混ぜ合わせて、掴み合う、食い合う、争闘する――その、自業自得を見ろ! という、腥惨《せいさん》な快感が冷笑となって、正隆の瘠せた小鼻に皺を刻むのである。
 狼は自分である。猟師は、彼の見えざる何者かと、その手下共である。
 この時正隆は、決して、係蹄を掛けたものが、結局は同じ係蹄に掛って殺されるのだぞ、という、復讐の勝利を感じているのではない。自分も、他人も、一緒くたに丸め、突転して力の限り踏みにじり、噛み潰す、火のような亢奮で、脂汗を掻きながら、歯軋りをするのである。

        五

 皆が、正隆を嫌っていた。それは事実である。けれども、また皆が、彼を一種の憐愍で見ていたことも、事実であった。彼は、神経衰弱になって、あんなに脱線するのだということを、最も確実な説明として、正隆を観たのである。従って、人々の嫌厭の陰には、何かそれを裏づける、寛大ともいうべきものがあった。
 まして、校長の副島氏は形式を越えた心痛で、この若い教師を眺めたのである。
 けれども、人の好い、何方《どちら》かといえば単純な副島氏は、正隆の、辛辣な、神経的な顔に面と向って相対すと、いつも、云いたいことを云い出せないような、不安と圧迫とに押えつけられた。
 どんなに元気よく、大きな声で快活にものを云いかけようと決心はしていても、彼の顔を見るや否や、このよき副島氏の計画は崩れてしまう。忽ちのうちに、正隆と同じような陰気さと暗さとに染められる彼は、まるで、正隆と同様な感情の所有者のような口調で、
「どうですか?」
と、意味をなさない断片的な言葉を吐き出してしまうのである。
 副島氏の、この挨拶を受ける毎に、正隆は同じように意味をなさない、微笑を返礼にした。時には、
「有難う」
と云う。
 そう云いながら、彼は心の中に、「またおきまりの、どうですか、か!」と呟きながら、苦笑をするのである。
 皮肉な気分で、表面は、一片の義理に見えるこの言葉を噛み捨てながらも、正隆の淋しい、荒涼たる心は、事実に於ては、どれほどの温みを感じていたか分らなかった。ただ、彼は、それを示すのが厭なのである。何だこんなもの、という表情をしていたいのだ。けれども、西日に照らされると、まるで茶色の風船玉に、小指でちょいちょい眼鼻を付けたような副島氏の表情は、何の毒も持っていないようにさえ思われる時がある。
 心に喰い込んだ疑惑に包まれながら、疑いと信頼と半々な心持で、いつも正隆は、この老年に近い校長を眺めるのである。
 ところが或る日の放課後、行くでも帰るでもない正隆が、呆然《ぼんやり》と、図書室の柱により掛っているところへ、思いがけず、副島氏が来掛った。そして、周囲に人のいないのを見ると、いきなりつかつかと近寄って来て、親しく彼の肩を叩きながら、先ず、
「どうですね」
とお定りの口を切った。が、今日は、それだけで終りはしなかった。副島氏は、全く思いがけず、正隆を夜の食事に誘ったのである。
 副島氏の言葉によれば、夫人も、彼には逢いたがっているのだそうだ。瞬間、返事に窮すような気分を感じながら、それでも正隆は、明に嬉しかった。
 美貌で評判の高い副島夫人が、自分を顧みてくれたということが、正隆の、久しく封じられていた遊戯《いたずら》心を擽る。彼は、その時ばかりは、皮肉さの微塵もない微笑で、承諾した。
 長い、退屈な、単調な田舎の生活に飽き尽した正隆の心は、表情の豊かな夫人の美と、抑揚に張りのある、丸い、転る東京弁に慰められて、想像以上に活気づいた。
 罪のない饒舌で坐を賑わす夫人と、何時の間にか、一寸した冗談を云い合うほど、彼はいい心持に有頂天になった。厭な、蒼い、捻れた正隆は影を潜めて、快活な、贅沢な、遊び好きな若者が入れ換った。容貌に於て、比較にならない副島氏が、思わず夫人の顔を眺めたほど、それほど正隆は幸福であったのである。
 若し、そのままで、副島氏の家を辞することさえ出来たら、総ては、幸福に明るく、華やかに終ったであろう。然し、そうは行かなかった。食後暫く経って、夫人が自慢の濃茶の手前をして見せてくれたことが、その作法を全く知らなかった正隆に、地獄のような混乱を起させてしまったのである。
 愛嬌のある夫人が、心持首を傾けるようにして、
「いかが、お茶を差上げましょうか」
と云った時、正隆は、半分は上の空で、半分は、普通の茶だと思い込んで、
「有難う、戴きます」
と返事をした。
 然し、いよいよ改まって、狭い、くすんだ、炉の切ってある坐敷に席を改めて、帛紗捌きが始まると、正隆は俄に周章し始めた。
 書生である彼に、そんな優雅な趣味は教養されていなかった。のみならず、必要だと思ったことさえもなかったのだ。
 今まで、或る時にはコケティッシュだとさえ思わせるほど、明るい燈火の下で華やいでいた夫人が急にきりっと相貌を引き締めて薄暗い炉辺に坐った様子は、正隆に寧ろ冷酷な感じさえも与える。
 彼の周章には見向きもしないように伏目になって、白い額際を鮮やかにさし俯《うつむ》いた夫人から痛々しく眼を反らして、正隆は副島氏を偸見《ぬすみみ》た。唯一の頼みに思って心ではすがりつきながら眺めた副島氏は、これはまた正隆を驚かせるほど泰然と坐になおって、小山のような膝の上には謡でも謡う時のように伏せた双手が行儀よく据えられている。のみならず、総てを飲込んだ落付きで、この憐れな、まごついた正客に眼をくれようともしないではないか。
 正隆は、両面攻撃に逢ったような、頼りなさと、憤りを感じて唇を噛んだ。
 さっきまでの、明るい、楽しい、笑声の渦巻いた世界は、瞬く裡に、けし飛んで、冷い、意地の悪い、疑いが、化物のように根を張った粘土の世界が、恐しい絶望の裂目から、もりもりとせり上って来たのである。
 自分のような書生が、こんな七面倒くさい作法などを心得ていないのは常識で考えて見たって、直ぐ解ることではないか。
 それを、ただの茶でも飲ませるようにして、何心なく誘い込んで置いて――。二人ともが、ちゃんと腹の中で牒し合わせていたに違いないのだ――。
 正隆は副島氏の夫妻がここでは有名な、茶の凝屋《こりや》であることは知らなかった。謡の好きな人が、泣きそうになる相手を前に据えて、心から喜び楽しんで「鉢の木」を一番という心持を知らない彼は勿論、副島夫妻の罪のない喜びを理解し得ようもなかった。彼等にとって、正隆がいてもいないでも、その純粋な楽しみは同じである。小さい子供達が、友達を呼んで飯事《ままごと》をしましょうよ、というような心持で、彼等は正隆をお客様にしたのである。
 然し、正隆には、どこか間違った最初の一圧えで、すっかり様子が変っていた。彼にとって、この席は、決してそんななまやさしい飯事ではない。憎むべき、彼の影の人の悪計に満ちた饗宴である。
 あんなにも楽しそうに、あんなにも親切そうに、麗わしい表情を活躍させて、もてなした夫人さえも今はもうただ最後にここで痛い目に逢わせようために使われた傀儡《かいらい》とほか思われない。握った拳を袴の折目に埋めながら、正隆は焔を吐くような視線で、ハッタと夫人の横目を睨まえたのである。殊更、美くしい婦人の前で赤恥を掻かせて、職務上から免職はさせられない自分を、追い払おうとする気なのだろう。
 思わずも、またうまうまと羂に掛った自分に、噛み捨てるような冷笑を与えながら、正隆は女がするようにキリキリと眉を吊上げた。が、然し、坐を立つことは出来なかった。毛虫が塊ったようにしかめられた眉が、研《みが》いたような夫人の瞼がもたげられるのを感じて、殆ど本能的に緩和された瞬間、正隆の前には、もう茶碗を捧げた夫人が現れた。
 細い、反《そり》を打った白い指先を奇麗に揃えて、静々と運ばれた茶碗の中には、苔のように柔かく、ほこほこと軽そうな泡が、丸く盛り上って濃緑に満たされている。それを見ると、美くしいと思うより先に、正隆は理由の解らない憤りを誘い出された。
 手にも取らず、凝と茶碗の中を見詰めている正隆に、夫人は、
「不加減でございましょうが、どうぞ」
と云いながら微笑んだ。
 何が可笑《おか》しいのだ! 正隆は頭を上げようともしなかった。様子が変だと気が付いた夫人は、急に今までの容儀を崩して打解けた調子に返りながら、
「渋谷さん、そんなものは、どうお飲みになったって拘《かま》いませんですよ」
と云いまでした。が、正隆は、依然として動かない。稍々《やや》度を失った夫人が、何か云おうとして言葉を探している拍子に、ひょいと頭をもたげた正隆は、薄明りの陰を受けてこの上もなく陰惨に唇を曲げながら、
「奥さん、何のためにこれを下さるのですか?」
と云った。
 思わず眼を瞠って良人と視線を交した夫人は、それでも社交に馴れ
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