である。
 年齢の差異とは反比例した自分の学識に対して、激しい自負は持ちながら、新来の教師として、当然免れ得ない批評を、よかれ、あしかれ、自分には訳の分らない言語で加えられることが、正隆にとっては、ひどい、不安《アンイージー》なのである。
 思い上った、人を人とも思わぬらしい笑いを口辺に漂《うか》べながら、内心は、物に拘泥せずにはいられない、臆病な、退嬰的な彼は、絶えず、他人の言動に、関心の目標を置いている。従って、こんな或る均衡を失った位置に置かれると、彼の不安や焦躁やは、殆ど想像以上にまで、彼を苦しめ、悩ますのである。
 こんな、言語の不通などということは、或る人にとっては、問題にもならないことであろう。また、相当の苦痛とはなっても、到底、正隆の感じた深さにまで進むものではなかったろう。新来の教師を仰いで、未だ正体を見極めない者に対する慎重さを持っている学生に向って、若し彼が、快闊な、ざっくばらんな口調で、
「私には、未だ君達の言葉が、よく呑込めないのだから、なるたけ、分り易く喋ってくれ給え」と云えさえしたら、その時から、総ては、もっと単純に、且つ明快になる筈なのであった。けれども、彼に、それは出来なかった。
 対照物の価値が、低ければ低いほど、彼の、不可能の量は増して来る。若しこれが、何か至難な学理上の問題ででもあれば、正隆も、解らないものは解らないと、簡単な心持で向われたであろう。けれども、学識と天分とを、豊に持った、青年教授として、好意に満ちた副島氏の紹介につれて、壇に上せられた自分が、どうしてこんな、田舎言葉が分らないと、白状出来よう、こう云って、正隆の頼りない、孤独な自尊心が呻くのである。
 勿論、これが位置顛倒して、自分が一人の学生で、傷だらけな机から逆に此方を眺めるのなら、こんな苦痛は、百分の一にも満たないだろうことを、正隆は知っていた。
 けれども、教室に出て、生徒の質問を受ける毎に、感違いすることを杞《おそ》れ、自分の弱点を曝露することを恐れ、曖昧な言葉尻を、臆病に濁しながら、それでも、尚自分の自尊心に突つかれた権威を失うまいとする正隆の苦労は、全く、彼にほか解らない重荷であった。
 そればかりか、正隆にとっては、毎日顔を合わせなければならない同僚が、また堪らないものなのである。

        四

 正隆が同僚に対して持った感じは、矢張り一種の不安と、いわるべきものであったろう。彼は、仲間の年長者達が、数年若輩である自分に向ける、試問的な眼をきらっていた。表面は、好意と助力とに満ちているらしく振舞いながら、内心では私に、自分と彼とを計量器に掛けるような態度。正隆は、たとい、どれほど同情するらしく、
「いやお困りでしょう。当分は誰でも閉口しますよ、まあもう暫くです」
などと、言葉の不自由を想いやってくれても、裏ではきっと、自分の鈍《どん》を笑っているに違いないのだ、と思わずにはいられない。何も、それを証明する実証は上らないでも、正隆は、総てをそんな風に思わずにはいられない気分になって来たのである。
 多くの人の中には、実際そんな者もあったかも知れない。けれども、決してそれが全部ではないということは、断言出来る。
 けれども、正隆は、それ等の種類を鑑別するだけ、自分を開いていなかった。自分の魂に、日の目が差さないように封鎖した彼は、また他人の心へ、光線を送り、見出すことは出来ない。絶えず揉まれる、落付かない、不真実な周囲を感じる正隆は、凝《じっ》と、寂しい、腹立たしい心を噛みながら、同僚に背を向けた。
 彼は、温みのない、堅い、辛辣な、裏切者が潰れた片目ばかりを光らせる生活を感じたのである。
 冷酷だ!
 何かにつけて、正隆はこう呟く。
 何が、冷酷なのか? 生活、人生が、冷酷なのだ。何故、冷酷なのか? それは、はっきりと説明の出来ない心持である。けれども、それが、冷酷であるのだけは、明かな、或る一種の心持。それは、容赦なく片端から、自分の持つ希望も、幸福も、努力も、何も彼も擲《たた》き落して泥まびれにしてしまうような惨酷さ、胸が搾られるような寂寥、皮肉、利己主義、そんな感情が、皆ごちゃ混ぜになって、醗酵した心持である。
 その薄ら寒い、暗い、じめじめした気分が近寄って来ると、正隆は逃げ出す力さえ失ってしまうのが常だった。
 彼は淋しくなる。感傷的になる。そして、子供のように、愛撫されて泣き出したくなって来るのである。
 けれども、どこに彼を泣かせてやる人がいるのか、正隆は絶望する。
 老人の謡曲の師匠。老耄に近い年長者連。皆関係がない各自の生活の中に、巣喰っている。教授という位置が彼を縛って、たとい、お座なりにしろ、美くしい顔に憐れむような表情を浮べて、彼の不平に耳を傾けてくれるだろう女性にさえ、近寄れない正隆は、全く、自分の心の遣場所を持っていなかったのである。
 青年が、生活の第一歩を踏み出そうとして、一滴は、必ずこぼすだろう涙。
 その記録すべき深い、静かな、祈願と、憧憬と、漠然と直覚する失望に似た感じが、正隆の場合では、ただ、感傷的に傾き過ぎていた。正隆は自分で、自分の魂、生活を御して行けなかった。周囲の他力に、彼は支配される。自分の心を掘抜くことも出来ず、人の心は、まして燃え抜かせるだけの力を持たない正隆は、胸に満ちる海潮のような感情を、湧くにつれて、後から後からと澱ませて行ったのである。
 澱ませられながら、容積を増す感情は、どうにか流動しようと身をもがく、その最も自然の結果として、正隆は、自分の身辺に存在する唯一の弱者である学生に、その感情の、甘饐《あます》えた、胸のむかつく沈澱を、浴せかけたのである。
 それにしても、正隆は決して学生を、真正面から叱責したり、急しい課題の続出で、困らせたりする種類の意地悪さを持ってはいなかった。
 彼は、自暴自棄になったのである。
 今までは、相当に緊張して立った教壇の上に、正隆はもう、木偶《でく》のように押据った。そして、義務的に独逸語を、美くしい声で読み上げたまま、後はもうかまわない。席順に、一人宛、一節の教科書を輪読させて、間違おうが、支《つか》えようが、彼は注意をしようともしなかった。凝と机に頬杖を突いて眼を伏せた正隆は、頭の先から、細い爪先までを満たした、何ともいえない焦躁と、淋しさと、棄鉢《すてばち》とに身も心も溺らせて、殆ど忘我に近い憂鬱に沈み込んでいるのである。
 けれども、こんな正隆の態度は、決して学生達を、長く鎮めてはいなかった。
 三箇月も経たないうちに、正隆は、学生中の嫌われ者になり終せた。
 たださえ彼の曖昧な、尊大振った、弱々しさに何かの物足りなさを抱いていた少年、或は青年達は、彼の不真実な挙動を見ると、もう黙ってはいない。彼の無能を罵る声や、彼の不熱心を訴える声が、教員室まで侵入して行き始めたのである。
 そうなると、同僚の多くは、問題の主人公たる正隆に対して、何か不自然な、敬遠とも、嫌厭ともつかない表情で、相対するようにならずにはいない。
 学生と同僚との、不安定な観察を身に感じる正隆は、心の中で、総ての人間共を侮蔑し、罵倒しながら、表面は平然と、蒼白い頬に冷笑的な薄笑いの皺を刻みながら、わざと、仮装した動じなさで、皆の、その眼前に姿を持ち出すのである。
 全く、これは決して、正隆一人の不幸ではなかった。彼の周囲に生活して、程度の差こそあれ、多少とも彼と関係を持つ総ての者が、彼の気分の免れ得ない影響を受けた。
 陰気な、外の人間の裡にある快活さや、率直さを一目で射殺すような正隆の眼を見ると、一人として、元の明快な気持を保っていることが出来なくなる。
 妙にこじれて、焦々しい気分が、電波のように、魂から魂へと伝って、等しく同様の苦汁を嘗めさせられずにはいないのである。
 こんなにして正隆の存在が、今まで相当の円滑さで流動していた生活の、大きな暗礁になったのを心付いた人々が、暗黙の中に、彼の自決を諷刺したのは、寧ろ当然とさえいわるべきものなのである。
 かなり敏感な正隆は、勿論この雰囲気の持つ意向《インテンション》を知らない筈はない。彼は、言葉よりも明に、それ等の効果ある暗示を読んでいたのである。けれども、読んでいたに拘らず、正隆は、自他の責道具である教壇から、身を退けようとはしなかった。決心をしないばかりか、彼には、その計画さえもなかった。計画させないものは、単に正隆の持前である優柔不断というよりは、寧ろ、ぐっと居直って、胡座《あぐら》を掻いたような一種の意固地が、彼を、恐ろしい搾木に縛りつけてしまったのである。
 そして、その意固地を掻き立てたものは、内攻に内攻を重ねた、彼の不安や焦躁の凝り固りである。
 時が経るに連れて、人と人との相対的な、複雑な、微妙な、流転する心の折衝に疲れ切った正隆は、極度の困憊から、終に、あらゆる不幸は、皆、何人かの憎くも企図して置いた、一種の悪計によって齎されたものであると、確信するようになってしまったのである。床柱も、畳も、程よく寂びた離座敷にポツネンと坐りながら、正隆は、よく、その見えない敵に向って呪咀を投げた。
 第一、正隆にとっては、このことの起りからが、疑問になって来た。これほど、言葉の不自由な、封建的な地方へ、何故、何の予備智識も持たない自分が、投げ込まれたのだろう。困るのは、解りきったことではないか。
 その困るのを見て、皆が内心では侮蔑しながら、軽視し、邪魔物扱いにしながら、表面だけは、どこまでも、親切そうな、好意を持った仲間らしく扮《よそお》っている。それのみか、普通、こんな状態になれば、当然、提出されるべき免職沙汰も持ち上らないのは、どういう訳なのだろう。
 若し、ほんとに自分の価値を認めて、留任を願うならば、何より自分には直接な関係を持つ学生に対して、何等か、緩和的な調停が与えらるべきではないか、それだのに、依然として、学生は自分の悪口を云い、解らない言葉を連発して苦しめるままに放任して置きながら、それから逃れる方法として免職させようともしないということは、正隆を考えさせる。
 つまり彼等は、逃路を塞いで置いて、火をかけたようなものではないか。何か、魂胆があるに違いない。必ず、何か、あるのだ。誰かが自分を苦しめて、悶え苦しみ、身をもがくのを見て、そっと舌を出しているに違いないのだ、とさえ、正隆は思い始めたのである。誰だろう?
 誰が、幕の彼方で、この憎むべき悪策の糸を操っているのか。
 正隆は、蒼い額に、切り込んだような縦皺を寄せながら、瞼を嶮しく引そばめて、森閑とした周囲を睨まえるのである。
 暗い、鋭い正隆の直視の前には、いつも、桑の小箪笥と書棚とが、行儀よく、手を入れられて並んでいた。
 まるで、結婚でもしようとする愛嬢に持たせるような亢奮で運ばれた、これ等の女性的な、贅沢な調度を見ると、さすがの正隆も、あれほどの亢奮と愛とで自分を送った母未亡人が、その黒幕の彼方の人物だとは思い得なかった。彼の揺籃の時から、細胞にまで浸み込んだ既定的な愛の信頼は、そこまで延びる彼の疑いを許さないのである。母未亡人でないと確定すれば、最も手近な処から、この探求を進めようとする正隆は、勢い、第二の嫌疑者として、長兄の正則を、牽《ひ》いて来なければならない。
 正則は、どうだろう、
 ここへ来ると、正隆は、蒼白い額を灰色にして腕を組んだ。自分に、今日の位置を紹介した当人として、若し疑えば、疑える場所に、長兄の姿は立っているのである。
 ここへ来させるという、第一の動機は、兄である彼が、作ってくれたものではないか、それ故、若し彼が、自分を陥入れようと計画したとすれば、もう、その最初の第一段から、呪うべき悪意が、親切らしい「兄」という人間の手に隠れて、前途に投じられたとも、云い得るのである。
 また、実際、親子ほど年の違う兄弟は、年齢の差以上に、母未亡人の偏愛によって、互の親密さを薄められていたのは、事実である。
 長兄が、もう一人前の青年になった頃、誕生した正隆は、連絡
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