うか?

        十二

 恐ろしい、それはあまりに恐ろしすぎることだ。正隆は、計らずも自分の生命の偶像である信子夫人に向けられた疑問を抱いて、三晩一睡もしなかった。
 若し彼女が、自分の愛に応答しない、信頼を裏切る悪魔の使いだったら、どうだろう。総ては、もうそれっきりである。もう、それっきり! その先にあるものは、云えない。云えない無が、虚無が、闇が拡って、彼を嚇やかすのである。
 彼は、何かただ一事で、馬鹿な貴様だな! と笑って、その疑問を殺してしまいたかった。けれども、彼は、そうは出来なかった。
 結婚の当時から、何かの折に触れては感じた、あの「けれども」という愁訴。幸福な間、その幸福の持つ、華やかな色彩で、何時の間にか隠されていた、その一種の、明かな物足りなさは、絵の具が落剥《らくはく》すると共に、何か意味ありげな穢点となって、正隆の心の前に滲みついたのである。
 ここに至って、正隆の内面的な問題は、一廻転したように見えた。今まで、ただ漠然と衆に向って注がれ、放たれていた疑惑は、今あらゆる力を集注して、信子をその対象として掴んだのである。もう、正隆にとって、自分が、役所
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