、或る一定の距離を隔てて面する以上決して、より接近し、しっかりと魂の奥まで掴んでくれようとはしない。不思議に、遣場のない不安、呪咀。当のない力の焦躁。行き処がない、行き処がない……
正隆は、憤りにまかせて、フム! やって見ろ! と叫ぶだろう。けれども、それは決してその瞬間の、心そのものの空虚を満すものではなかった。相変らず、淑やかな、温順な、動じない妻。正隆や、正隆や、と云う母。然し、二人は、何の力も加えてはくれないのだ。彼女等の、相変らずの柔かさ、ほの温かさが正隆を、一層苦しませる。彼は、自分と共に若し信子も怒鳴って、狂《あ》れて、呪咀すべき運命、人間、に拳を振ってくれたらば! と、思う。それでなかったら、何か、火のような言葉で、自分をハッとさせてくれさえしたら! と希う。希う。ほんとに希う。が、出来ない。
信子夫人は、良人として与えられた異性に、ただ従順に、貞淑に、美くしい身嗜みで心を和らげる妻として育てられて来た。彼女の予想した夫は、多大な名誉と希望とをもって、華やかに彼女を引立てる筈のものであった。総てはちがって来た。信子夫人は勿論そう思わずにはいられなかった。正隆も勿論、
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