所である脳病に正隆を圧し込めた母未亡人は、正隆にとっては、何の慰めにもならない、身の辺りの手落ちない注意で、温めようとした。
 その様子を、静かに眺めながら、美くしい信子夫人は、良人の受けた疑いに、或る恥辱を感じると同時に、価値の見えざる下落を感じずにはいられなかったのである。
 信子夫人にとって、良人は尊敬すべきものであった。その良人が、何か厭わしい嫌疑を受けたということは、彼女の誇りを、むっとさせることである。栄達の見込みが確実らしく見えていた良人の、俄の失墜、顛落しつつ、男らしくもなくもがき叫びながら、ただ徒に、焦る彼を見ると、信子夫人は、最初に懸けられた疑を、確かりと否定することさえ、曖昧なものに思われて来たのである。
 良人を全部、信じ、肯定しきれない信子夫人は、心の中では、幸福な姉達の生活を比較しながら、あでやかな眉を顰めて、憐れな良人を眺めたのである。
 総ては、どこにも捌《は》け口のない濁流の渾沌さで彼の周囲に渦巻いた。
 正隆は自分の苦悶を、肯定してくれる者もなければ、また力強く否定して、鞭撻しようとしてくれる者もないのを発見した。妻も、母も、遠く、或は近いといっても
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