を、或は一種の病的《ハルシネーション》な幻想だったかも知れないと、彼自らに思わせていたものは、正隆の生活に与えられた、新たな幸福の力であった。
 強調された現在の色調に、知らず知らず過去を薄めていた彼は、今、その頼む現在の破滅によって、俄に、過去を筒抜けに見るようになって来た。遠のいて、ぼんやりとしていた思い出が、一時にカッと鮮明な力強いものになって彼の面前に迫って来る。そして、あの時と、今との連続となっている僅か二三年間の光明は、却ってそれが明るいために、余計、左右の闇を濃くすることにほか役立たないのである。
 感情に激した正隆は、大きな打撃を受けた瞬間から、あらゆる冷静さ、実際的方針というべきものを失ってしまった。
 役所は、ひどい、不正である。自分のすべき仕事と、繋ぐべき希望は、もうない、なくなってしまった。と思うと直ぐ、辞職願を書いて突き出した正隆は、自分に与えられた苦痛を、ただありのまま、そのままに受取って全身で苦しんだ。その苦しみは大きい。深い。そして、魂の根にまで毒を注射するものであったろう。けれども、正隆は、それほどの苦痛に、解剖のただ一刀をも加えなかった。
 自分は苦
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