田猛君ですか、あの人が行くのですか?」
という反問が、殆ど無自覚の裡に、正隆の口を突いて出た。
「ええそうです、あの真田君です」
 然し、彼の老眼の前で、俄にサッと血の気を失った正隆の顔を見ると、何でもないという風だった課長は、急に言葉をついだ。
「それあ、君もここまでやって残念でしょう。それは私も察しる。が、なにしろ、場合が場合だから、今度は、真田君に譲ってやり給え。まだ君なんか若いんだから、先が緩《ゆっく》りしている。あわてないでも好いでしょう。それに君は、家庭もよし、歴《れっき》とした――」
 課長は、ここで何故か一寸厭な顔をした。
「兄《あに》さんも持っているのだから――」
「家庭が好い? 兄貴がある? 何を云うのか、それとこれとは、全然異った問題ではないか、そんなことで、左右されることではないのだ。途方もない、何を感違いしているのだ。驢馬!」
 正隆は、唇を噛みながら、いまいましげに、額を逆に撫で上げて、ジロリと平気に見える老人の顔を睨み据えた。
 然し――。
 正隆は、第一、何故自分が除《は》ねられて、あんな真田が選ばれたのか、その理由を知らないでは納得出来ない心持がした。
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