、仕事に勤しんだのである。
当時、三十歳だった正隆は、ようよう光明に向って踏み出した生活の三足目で、自分を粉砕する襲撃を予期してはいなかった。予期出来なかったほど、正隆は、或る点からいえば正直になっていたのである。
自信ある競技者のみが感じ得る楽しい、光輝ある緊張の連続で、いよいよ結果の発表されるべき日が来た。
その日の帰途を想って、自ら微笑を禁じ得ないような心持になりながら、出勤した正隆は、自分の机に坐るか坐らないかに、課長室へ呼ばれた。彼は、勿論何の不安をも感じなかった。至極落付いていた。が、その落付いた、もう解りきっているという平気さの下に、嘘のいえない心臓を率直に鼓動させながら、正隆は厚い木の扉を開いて、半白の課長の面前に現れたのである。
「まあ、そこへでもおかけ下さい」
機嫌のいい声で、朝の挨拶をして正隆に、傍の椅子を勧めると、課長は、暫く何か決心のつきかねた風で、頬杖を突いた片手を延して机の上を叩いていたが、いきなりその顔を挙げると、
「いや、どうもあの翻訳はお世話でした」
と云いながら、一寸頭を下げた。
これは、唐突である。正隆は一寸返事を見出せないで次の言葉を
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