がら、細胞の一つ一つを満して行くように、正隆は活気づいた。ほんとに、附元気ではない希望と活気とに燃え立った彼は、これも珍らしく、特殊な感激に打たれているらしい妻の顔を晴々と眺めながら、選抜試験の課題ともいうべき、独、仏、英語の或る翻訳に着手し始めたのである。
勿論、正隆は、自分の競技すべき一箇の敵手として、殆ど同年配の同僚が一人在ることは忘れなかった。夜遅くまで、彼が机に噛りついて、あらゆる精力を傾けながら、一生懸命筆を運んでいる時に、彼方の、どこか見えない家の書斎でも、同様の努力が行われていることは、片時も、正隆の頭を去ることがなかった。然し、その競争の意識は、彼にとって決して不愉快な重圧ではない。丁度、雨に降り込められた者が、俄にカッと輝き出した太陽に照らされたように、正隆にとっては、一種の明るい活々とした刺戟である。
時に、鈍重《ダル》になりそうな心持や、長い仕事には付きものの、不思議な焦躁等を、或る程度まで制御して、適当に仕事を新鮮なものにして行く、調節器であるといっても差支えないほど、正隆は、自分の学力と文才とに自信を持っていたのである。
従って、正隆は、自分が留学生と
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