りながら抱き擁《かか》えて見ると、決して悪というべき何物をも持たない正隆の心は、ほんとによく[#「よく」に傍点]なった。このよさ[#「よさ」に傍点]は、時によると彼の弱々しい微笑の間に、大望《アンビション》さえも忘れさせかねないものである。また、時によると、得体の知れない悲しさにさえ沈ませるようなものでもある。
 妻と子と、家と。
 正隆は、生活の快い、日向《ひなた》を感ぜずにはいられなかった。有難い日向である。平和な日向である。そして事のない、日向である。
 もう少しで、そのほかほかと陽炎《かげろう》の立つような生活の安穏に居眠ろうとした正隆は、正房が二歳になった時、思い掛けぬ刺戟を与えられた。
 それはほかでもない、当時、青年という青年の血を湧き立てずには置かなかった、海外留学、それも、農商務省からの留学生として、海外派遣を命ぜられるかも知れないという福音なのである。
 これは全く正隆にとっては、眠気醒しの、灌水浴《シャワーバス》ともいうべきものであった。ぼんやりと、霞の掛ったような頭の上から、サーサー、サーサーと小粒な水玉を撥《は》ねかけられて、急に甦った血行が、快い亢奮に躍りな
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