とがある。それはどこまでも気分である。理窟からいえば、あれほど賢くふるまって、家を治める彼女に、それ以上の注文を出すのは、不親切だと思いながらも、なお、或る時に思わずにはいられない気分が、けれども――と遠慮深く呟きながら、或る不平を訴えるのである。
 その不平は、何故、あれほど利口な信子でありながら、何故またあれほど熱がないだろう、という愁訴なのである。
 今、ここで正隆は、かりに熱という言葉を使ってはいるが、それは実際、その本質に於て、熱と称すべきものなのかどうかは、分らなかった。が、何か、それに似た一種の力が、素晴らしい信子の裡には、欠乏しているように思われるのである。
 その或る物の欠乏は、外に表れると、彼女の冷静な、研ぎ澄した銀線にも比すべき美貌に、神秘的な陰翳と底力とを与えるものであるが、それが、魂と魂とが裸心で向い合おうとすると、思わず、彼を冷やりとたじろがせる種類のものなのである。
 静脈が、今にも紫に透き通りそうな、薄くすべすべと滑かな額から、反を打った細い足の爪先に至るまで、信子夫人の肉体を構成する一本の太い線もなかった。
 総てが毛描きである。弱く、繊《ほそ》く描か
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