、正隆は、楽しかった。それは事実である。彼は自分が幸福であること、若し人間の味い得る幸福の種類が十あるものだとすれば少くとも、その中の七つまでは、既に味い得たことを、確信しているのである。
けれども、勿論、それで完全だということは出来ない。正隆の理想から見れば、美の形式に於て殆ど完成に近い女性を信子夫人だということは出来ても、それならば、彼が、無意識の中に描いていた愛というものは、これで完全かというと、正隆は、明に或る躊躇を感ぜずにはいられなかったのである。
よい家庭に育って、女性としての教育を当時としては出来るだけ与えられた信子夫人は、元より欠点というべきほどの欠点は何一つ持っていなかった。
総ての女性が、従順である通りに彼女は従順であった。謙遜であった。そして辛棒強くもあった。深い謹《つつしみ》と、尊敬とを持って、良人である彼の前に傅《かしず》いてくれる。時によると、無作法な彼が、思わず恐縮するほど、嗜の深い細心を持って生活を縫い取っているのである。
けれども正隆は時に、散歩などをしながら、ふと何かの機勢《はずみ》で、けれども――と思い出さずにはいられないような気分になるこ
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