運の徴《きざし》の裡に、あらゆる過去の陰翳を否定していた。否定していたのみならず、あの瞬間と、今の、この、光り輝く薔薇色の瞬間との間には、何の連絡もなく思われたのである。
幸福を思って微笑する時み、悲運を思って、思わず眉をひそめる時にも、正隆は決して自分をその中点として描いてはいなかった。
幸福は、類なく繊麗な妻の信子の黒い瞳と、愛撫し、愛撫し、愛撫し尽してもまだ足りないように見える母未亡人の、豊かな頬の皺の中に保証されているような心持がする。それなら、この種の幸福の萌芽を、また、あの時分のように蹂躙《じゅうりん》する者があるだろうか?
紫縮緬の衿から俄にパッと光るような項《うなじ》を浮立たせた信子夫人が、鋏の小鈴をチリチリ鳴らしながら、縫物をする傍に横わって、正隆は、思うともなく、そんなことも思って見る。
けれども、それは決して、思って見るという程度以上には進まなかった。また、進むべき種類の想像でもなかった。正隆は、心に確りと描かれている豪奢な幸福の色調を、一層鮮に引立てるために、一寸使った影として、楽しく歓びに満ちた筆触《タッチ》で一抹の灰色を引くのである。
こんなにして
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