である。上品でありながら、飽くまでも、瀟洒でなければならないという、彼の条件を知って生れて来た者ででもあるかのように、その立姿は冴え渡って、すっきりとしている。しかもそれが、高槻信と自署されているのを見て、正隆は思わず、何物かに胸を衝かれたような心持がした。
ただ、美くしい、ただ、素晴しい婦人として、彼方に眺めていた彼の観賞眼は、この三つの文字で俄に、その視線の距離を縮めてしまった。焦点が、グッと動いて心の真正面に移って来たのである。
子供の時分、よく母未亡人に連れられて遊びに行った、あの築山のある、泉水に緋鯉が泳いでいた家に、こんな娘が住んでいるのかと思うと、正隆は一種不可解な、謎を感じずにはいられなかったのである。
もう、二十にもなっているのなら、自分とは、たった五つ六つの違いである。
まだ漸く七つか八つだった自分が、
「おばちゃん、今日は」
と云いながら、紫|天鵞絨《ビロード》の大黒帽子の頭を可愛く下げたその時分に、多分は、ろくに歩けもしない赤坊の信子が、母親の膝にでも抱かれて自分を見ていたのかと思うと、正隆の胸には、ついぞ湧いたことのない、一種の懐しさが後から後からと湧
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