は、質問を受けないのみならず、自分自身も、何の反省や自責で、苦しめられずに済んだ。
 彼は、久し振りで悠々と、馴染み深い環境の中に身を寝そべらせて、居睡ったのである。
 けれども、おいおい日が経つに連れて、心の落付きが戻ると共に、K県での記憶は、何かにつけて、正隆の眼の前に現れた。
 赤坊の時から見なれた母未亡人が、相変らず、黒紋羽二重の被布に、浅黄の襟をかけて、小ぜわしく廊下を歩み廻るのを眺めながら、朝夕、細かな、女性的な情緒に抱擁されている今の正隆にとって、K県の思い出は、我ながら、奇怪なものになってきたのである。
 思い返して見ると、自分がほんとに神経衰弱だったから、あれほど真暗闇の苦痛を味ったのか、それとも、事実に於て、周囲がそれほど惨虐であったのかという境は、いつも際どいところで、ぼんやりとしている。どちらが、どうだったとも決定しかねる心持になって来るのである。
 けれども、あれほどの苦痛の原因を、ただ、俺が神経衰弱だったからなのだ、といって片付けることは、正隆の自尊心が承知しなかった。
 若しそれを承認すれば、結局、悪い、捻れたのは、自分一人で、他の人々は、皆よい、完全な、
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