親切な人々だったのだと、いうことになるではないか。
「そんなのは、俺はいやだ」
 正隆は、我儘らしく首を振った。
 が、それならば、周囲にいた、あらゆる人々は、校長から給仕に到るまで、皆悪人ばかりだったのか、学生は皆、買収されていたのか、といえば、さすがに、うんそうだとも、とは云いかねる何ものかが、心の底に頭をもたげて来るのである。
 小さい鉢植えの紅梅を綻ばせながら、霜除けをした芭蕉の影を斜に、白い障子に写した朗かな日を背に受けて、我ともなくうつらうつらと思索の緒を辿る正隆は、ここまで来ると何時も、闇で見た幽霊を、追懐するような、漠然たる気分になるのである。
 幽霊を、きっと見たには違いない気がするのだ。若し、相貌の詳細《ディテール》を説明しろと云われれば、今直ぐにでも出来るのだ。けれども、いざ、それなら、ほんとにあそこの壁に立っていたのかと詰め寄せられると、決定的な返事には窮するような心持なのである。
 そうなると、正隆の眼前に拡がった濃霧《ミスト》は一層深くなって、終には、K県に於ける農学校そのものの存在さえ、怪しくなって来るのである。秩序立てて考えて見れば見るほど、自分の立場が
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