位置を垣内の、四角な顔に擲きつけた正隆は、その晩手荷物も持たないで、K県を立ってしまった。
 中二日置いた靄《もや》の濃い冬の朝、膏と油煙で黒光る顔を洗いもせずに、九段の家の敷居を跨いだ彼は、もうそれきり、二度とK県へ、振向こうともしなかった。
 僅か半年とはいいながら、充分に物凄まじかった正隆の教員生活は、最後の、半ば気違いになった大飛躍で、遠い、遠い彼方まで、放擲されてしまったのである。
 副島氏等からの音信によって、正隆は、もう立派な病人だと思い込んだ未亡人は、ひたすら、彼の恢復を希うばかりで、今更、彼を元の位置迄送り返そうなどとは、夢にも思ってはいなかった。
 そればかりでなく、未亡人は、丁度注意深い獣使いが、傷に触って、狂う獣を一層荒れさせまいと用心するように、どんな場合にでも、決してK県の話だけは、鬼門にして触れなかった。
 また一方からいえば、あれほどの希望と、誇りとを負わせて送り出した彼女は、この常軌を逸した彼の帰京を、病気にでも理由つけて置かなければ、到底堪らないほどの、失望や、間の悪さを感じるのだったろう。
 従って、かなりまで強調された「病人」の特権によって、正隆
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