かった。彼は、なすべきことと、すべからざることとの境を、彼等家庭の清浄さに於てまで、割れた蹄を利用して跳び越えるほど、魂を失ってはいなかった。然し、若し、義一が、尚子夫人の愛に、些でも何等かの間隙を感じているのなら、あらゆる機会が、最も用心すべき機会《チャンス》が、二人の間に露わされている場合に、正隆を近づけることはなし得ないことではないであろう。
その信愛の深さが、正隆に嘗ての結婚生活を想起させる。これほどの違い、同じ女性である尚子と信子、そしてまた、同じ男性である、自分と義一、同じ天の下に、同じ日を仰ぎながら、幸福はかくまで大きな差を持っている――。
ここで、正隆は、悪魔的な冷笑を浮べた。あれほど、互に信じ合っている彼等の間に、一寸割って入って、今まであれほど、確実に彼等のものらしく見えていた幸福の殿堂を、サムソンのような腕の力で、打ち砕いて見たら、どんなだろう。
尚子夫人を、我ものにして、擁しながら、絶望して髪をむしる義一を見下したらどうだろう。どうだろう――そう思ううちに、正隆は、激しい悔恨に魂を掴まれて、サーカスティックな嘲笑を消してしまう。
この時、道義的な不安と
前へ
次へ
全138ページ中124ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング