たのだ、と仮想することに依って、正隆は辛うじて、息を吐くのである。
 若し、信子夫人が彼を今もなお愛し、慕い、求めている心の麗わしい、魂の輝やいた女性だとしたら、一体、自分は、どうしたら好いのだ? これが、あの当時から正隆の絶えざる恐れである。若し、彼女がそうであるとしても、正隆は、一旦自分の胸から引離されたものを追って、更に完全な奪略を仕返すほどの力を持たないことを自覚してもいたし、また一面からいうと、それは彼の自負心を赧らませることでもある。信子夫人は忘れられない。忘れられない、が元に戻す力はない。彼女の遺して行ったあらゆる記憶のうちに我ともなく耽溺して、終には魂が燻り上るほどの嫉妬を感じる正隆は、その苦しい遁路として、彼女を、「見損った」と、強いても思うように努力したのである。
 自分に齎された総ての不幸がそうである通り、信子は、衆人の悪意から生れた、顋門《ひよむき》のない私生児である。彼女は自分の破滅のために遣わされたのだ。自分を苦しめるために、寄来されたのだ。それだから、あれほど、自分の希望通りの容貌さえ具備して、自分を蠱惑《こわく》してしまったのではないか。妖女! そんな信
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