夫人の姿を見ると、正隆は一種表現し難い愛惜を感じずにはいられなかった。過去の追憶もあるだろう、強いても殺戮し続けて来た希望への哀悼もあるだろう。正隆は、一新された環境のうちにあって、共に一新された或る不安定を、彼の生活の根本に於て感じずにはいられなくなって来た。それは、信子夫人を失って以来、十六年間彼が感情に於て否定して来た生活の模型が、ここでは正隆の暗い努力に対してあまり無惨なほど、確実に営まれている、ということなのである。
正隆がどれほど、美しい信子夫人を愛していたか、それはもう問題外である。その愛した夫人を、彼が如何様にして失ってしまったか、これは、正隆にとって、思い出すのさえ苦痛な疵痕《きずあと》であった。彼が眠薬を飲まされて、うつらうつらと夜昼のけじめもなく睡っていた間に、万事を取定めて、現れたと同様の突然さで彼の許から永劫に去ってしまった信子夫人を、正隆は、どうしても、忘れること、諦めること、生活の圏外に放擲することは出来ない。それは、十六年前の、当時がそうであったと同様に、今もなおそうである。
ただ、嘗ては楽園の使者のように見えた彼女を、今は、呪咀された運命の手先だっ
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