信子夫人が、一旦彼の抱擁の中から逃れたら、それはもう永劫の遁走であることを、正隆は知っていた。彼女の身を庇護するために拡げられる腕は、この地上に決して、自分のだけではないだろう。一面からいえば、彼の許から去った信子を、今、この刹那に於て期待しているものがあるかも知れないではないか。
 正隆は、時間的に或る破滅の切迫を直覚した。若し、彼がそのまま、見えない、掴めない、魂と魂とで引組んでいたならば、その間に、彼女の、自分の運命を決する瞬間が流れ寄って来そうに思われて来たのである。
 口は、いくらでも嘘を吐《つ》ける。どこにあるのかそれも分らない魂、心、はその口によって出口を見出すほかない。そうすれば、唇を越えた瞬刻、魂の本然はいかほどまでに偽られているか、信子の心自身でない自分には、決して解る筈がないのではあるまいか。それでは駄目だ。それでは仕方がない。
 正隆は、心でもない、言葉でもない何物かによって、信子の証言を得なければいられなくなって来た。
 心はどうだか、俺に知る力がない、けれども、信子! どうぞ事実に於て、変らない俺の妻であることだけは、証《あか》してくれろ、信子! 正隆は泣
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