夫人の表情は変らなかっただろう。ただ、一度は一度と、半ば義務的な夫人の返事が、その僅かな潤いすら失って来るだけなのである。
こうなると、もう正隆は、ほんとに気違いになりそうになって来た。
信子が、彼の生活から離れはしまいかという疑問は、今、もう空漠たる抽象的な疑問としては置けなくなった。彼女が、所謂|躾《しつけ》のよさから、或る程度まで、それを沈黙のうちに殺しているとはいえ、正隆は、彼女の瞳が、何の愛着も自分に対して持っていないことを認めずにはいられなかったのである。
それは、信子は親切である。落度なく彼の身の囲りの世話はしてくれる。けれども、それは、最も大切な、或る物を欠いている。彼女の親切は、注意は、結局、それを要される一つの位置《ポジション》に置かれた者が、己の義務を完全に遂行することに満足を感じて、しているのだとほか思われなかった。死んでも、癒してみせるぞ! という熱情の、断片さえも彼女の胸にはないように見えた。愛もなく、執着もなく……。信子は、ただ、或る機会、その機会は、彼女を自分から解放する一つの機会――を待っているのだと、正隆は思わずにはいられなくなったのである。
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