ってはいなかった。彼は求めているのだ。ひたすらに、信子夫人の真実な愛の証言を、求めているのだ。彼は、それさえ確りと与えられれば、何の焦躁も狂乱もなく、生活に戻ることが出来るだろうことを知っていたのである。が、然し、それは決して与えられなかった。望み、求める第一のものが与えられないのみならず、それ等は刻一刻と彼の周囲から遠のいて行くようにさえ見えた。
「愛すと云ってくれ。信子。どうぞ。ただ一言、愛す、とだけ云っておくれ、それで俺は救われる」
 亢奮した正隆は、泣きながらかき口説いて、白い信子夫人の手を引絞るだろう。
「どうぞ信子、ほんとのことを云ってくれ、俺を愛す! と云っておくれ、信じておくれ、それで、俺は助かるんじゃあないか、信子!」
 瞬間、夫人の瞳は、彼の言葉に刺戟されて、微かな輝きを持つ。然し、次の瞬間、諦めを含んだ憫笑と、もっと性的な圧苦しい嫌厭が齎す冷笑とを、鮮やかに赤い唇に浮べる夫人は、やがて、彼の感激とは、まるで宇宙の異うような冷淡さで、
「もう分りました。さあ、気を鎮めてお休み遊ばせ」
という返答ほか与えないのである。
 正隆が、たとい一万度、同様の哀願を繰返しても、
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