はいられなかった。信子夫人が黙れば黙るほど、落着けば落着くほど、正隆は多弁に、燃え顫えて、掴み得ない何物かを掴もうとして、後ずさる夫人の心を追うのである。
けれども、この魂と魂との争闘は、決して長くは続かなかった。暫く時が経つと、始めの間は、相当な真実さで、良人の質問に応答していた信子夫人は、すっかり、その緊張を失って、丁度、精神病者に対するような不真面目が、彼女の態度に現れ始めたのである。もう、信子夫人は、一言でいえば、正隆に取り合わなかった。もとは、頬を赤めて憤りもした。時によれば議論がましい口を利いた夫人は、もうぴったりとそれ等を封じ込んでしまった。そして、気の違った者が、
「馬鹿やい、馬鹿! お前は馬鹿だぞ!」
と叫びながら荒れ狂うのに対して、周囲の者は、半ば憫笑を漂《うか》べながら、
「ああ馬鹿だよ、馬鹿だから、音なしくしておいで」
となだめるような調子が、正隆に対する総ての素振りの中に含まれ始めた。彼自身は、気づかないうちに、正隆は、彼の唯一人の頼りである信子夫人に先ず狂人扱いをされ始めたのである。
明に、正隆の言動は常軌を逸していただろう。けれども、彼はまだ気違いにな
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