前身を確に知ってはいなかった。まして、村の若い者、仙二位の男達だって、赤児で始めて沢や婆さんの顔を見、怯えて泣き立てて以来、見なれて、改った身元の穿索もせずに来た。村の往道に一本、誰のものとも判らない樫の木が飛び生えていた。その樫の木はいつ其那ところへ芽を出したのだろうとは誰も考えもせず、永年荷馬車を一寸つないだり、子供が攀《よ》じ登りの稽古台にしたり、共同に役立てて暮して来た。沢や婆さんの存在もその通りであった。村人は、彼女が女であって、やはり金や家や着物がないと暮して行けない――自分と同じ人間であることも忘れたようになって、或る時は呼んで按摩をさせた。或る時は留守番をさせ、或る時は台処の土間で豆をむかせた。何かさせれば、大抵その晩は泊めてやった。勿論食事もさせる。場合によっては金もやったが、沢や婆は、ちゃんと金の貰えるようなことは何一つ出来なかった。村では、子供でも養蚕の手伝いをした。彼女は、
「私しゃ、気味がわるうござんしてね、そんな虫、大嫌さ」
と、東京弁で断った。縫物も出来なかった。五月には、
「お百姓なんて辛いもんだね、私にゃ半日辛棒もなりませんや」
と、肩を動して笑った。
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