がこういう鈍感な雲と月とを描くのであろうかと思っていたところだったので。
 ゆうべ、八時頃、下から登って来たら、バスの女車掌が運転手と、あした、八百名、自由行動だってさ、晴れたら歩くだろう、と話していた。その八百名のほかにも、襟に黄色い菊飾のしるし[#「しるし」に傍点]をつけたような善光寺詣りの連中がのぼって来ているだろうのに、山々の見晴しはどこまでも静かで、暖かで、遠い河の細い燦めきまで、紅葉した桜の梢の下に展けている。

 ゆうべ、八時というのは、長野の町へ出てのかえりであった。
 善光寺を建てた坊さんは、長野の市街が天然にもっている土地の勾配というものを実にうまくとらえ、造形化したものだと思う。見通しの美的効果というものを、敏感に利用している。その勾配を、小旗握った宿屋の番頭に引率された善男善女の大群が、連綿として登り、下りしていて、左右の土産物屋は浅草の仲見世のようである。葡萄を売っている。林檎を売っている。赤や黄色で刷った絵草紙、タオル、木の盆、乾蕎麦や数珠を売っている。門を並べた宿坊の入口では、エプロンをかけた若い女が全く宿屋の女中然として松の樹の下を掃いたりしている。
 
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