方的に下される過去の文学への批判の性質を噛みわけて文学の問題として摂取成長してゆくより先、作家というものの文化的存在の可能不可能、ひいてはたつきの問題へ性急に迫って現れて、そこで作品とは切りはなれた作家の上下動が見られるということになった。
 従ってその動きでは、雷の親のうつ太鼓を雷の子どもも自分の小太鼓でうちたたく姿があらわれ、文学の重く痛切な流れは左右の岸を洗いつつ自身の流れに沿うて流れざるを得ない形なのである。
 現代文学の中にあらわれているこの大きく深い淵、角度のひらきを、その現実の意味の大きさ、深さそのものに於て把握してその本質をつきつめ会得することで、明日の文学はみずからの前進をしなければならないのであろうと思う。何故なら、作家と作品との間にそういう甚しい分裂が生じたのは、この数年来文学の世界に真の現実諸関係を生かそうとせず、作家の恣意によって風俗の一断面を自身の鏡の下において眺めたり、思念の断片を一つの世界に拡大して見たりして来ていた文学への云ってみれば現実の復讐であるから、文学の世界に現実をどうみるかというような考えは無用であると云われた四年ほど前の言葉の唾は、余り自由
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