に対しても「この頃やつと始まりしは、反つて遅すぎる位なり。」「蒼生と悲喜を同うするは軽蔑すべきことなりや否や。僕は如何に考ふるも、彫虫の末技に誇るよりは高等なるを信ずるものなり。」と感じつつも「プロレタリアは悉く善玉、ブルジョアは悉く悪玉とせば、天下はまことに簡単なり。簡単なるには相違なけれど、――否、日本の文壇も自然主義の洗礼は受けし筈なり。」とし、更に一転して「ひとり芸術至上主義者に限らず、僕はあらゆる至上主義者、――たとへばマッサアジ至上主義者にも好意と尊敬とを有するを常とす」と彼らしく皮肉な自己の知的優越をもほのめかさずにはいられなかった。当時流行作家であったと共に一部からは権威とも目されていた芥川龍之介が、昭和二年七月「或旧友へ送る手記」を残して三十歳の生涯を終るに至った内外の動機は何であったろう。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」と云われている。しかしながらこの「ぼんやりした不安」こそ最も深刻な圧迫感をもって、多くの作家の魂に迫っていたものではなかったろうか。
東京の下町の強い伝統を持った家族関係の中で経済的な不如意を都会人らしい体裁で取りつくろいながら生きている人々の間で育ち、大学時代から現実生活の問題を常に念頭に置いていなければならなかった青年時代の芥川龍之介。自身の上に濃く投げかけられている封建的なもの、それによって受けているものは損害の外にないことを知りながら、野暮にそれと正面衝突は気質的に出来ず、あらゆる反撥を知的な優越と芸術への献身に打込もうとしていた彼の文学的発足が、「鼻」「芋粥」「羅生門」のようなものであったことも考えさせるものを持っている。「侏儒の言葉」の中で「どうか勇ましい英雄にして下さいますな。」「わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし」と云う一面、ゲーテ、シェイクスピア、ニーチェ、あらゆる古今の天才に倣わんとするものであると云わせる彼の天才主義は、彼自身そこから超脱した生活は有り得ないことを明言している時代と歴史の歯車の間で、どのような自身の帰結を可能としていたろうか。
有島武郎とまたちがった意味で時代の苦痛に身を曝した芥川龍之介の死は、その遺書の中に、「僕の遺産は百
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