昭和の十四年間
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一つの蹉《つまず》きとなった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)蜚※[#「虫へん+廉」、第3水準1−91−68]《あぶらむし》
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一
大正年代は、日本の文学界にもヨーロッパ大戦後の世界を洗いはじめたさまざまの文学的動きを、日本独特の土壤の上に成育させながら、極めて複雑な形で昭和に歩み進んだ。
ヨーロッパ大戦後の、万人の福利を希うデモクラシーの思想につれて、民衆の芸術を求める機運が起って『種蒔く人』が日本文学の歴史の上に一つの黎明を告げながら発刊されたのは大正十一年であった。ロマンティックな傾向に立って文学的歩み出しをしていた藤森成吉、秋田雨雀、小川未明等の若い作家たちは、新たに起ったこの文学的潮流に身を投じ、従来の作家の生い立ちとは全くちがった生活の閲歴を持った前田河広一郎、中西伊之助、宮地嘉六等の作家たちと共に平林初之輔その他が新興文学の理論家として活動しはじめた。前田河広一郎の「三等船客」中西伊之助の「赭土に芽ぐむもの」藤森成吉の「狼へ!」「磔茂左衛門」宮嶋資夫の「金」細井和喜蔵の「女工哀史」「奴隷」等は新たな文学の波がもたらした収穫であった。
この新興文学の社会的背景が、ヨーロッパ大戦後の日本の社会の現実的な生活感情と如何に血肉的に結ばれていたものであったかと云うことは、有島武郎の「宣言一つ」などを見ても、今日まざまざと理解することが出来る。この「宣言一つ」には、新たな歴史の担い手としての階級の意味、その文化建設についての当時の考え方と、知識階級の歴史的意味の問題等が、今日から顧みられれば、幾多の誤りをも含みつつ、筆者の人間及び知識人として当時に悩んだ良心の故に、率直に語り示されていることは、興味深いところである。
このようにして、自然主義以来、個人というものを基点として創造され、主観的、印象的に評価されて来た近代文学は、新たな社会的・階級的内容に立って創られ、客観的な発展の方向に於て評価を受けるようになって来た。大正十四[#「十四」に「(ママ)」の注記、正しくは「十三」]年『文芸戦線』が創刊されて、プロレタリア文学の理論は、一層広汎に活溌に展開され始めた
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