が、芸術作品に何よりも先ずその社会的意味をさぐろうとするその態度に反撥した一部の新進作家によって「新感覚派」の運動が起されたのが大正十三年であった。横光利一、片岡鉄兵、川端康成、中河与一、今東光、十一谷義三郎等を同人とするこの「新感覚派」の誕生は、微妙に当時の社会的・文学的動きを反映したものであった。従来の文学的領野に於ては、依然として志賀直哉が主観的なリアリズムの完成をもって一つの典型をなしており、新しい作家たちが若しその道へ進むとして、志賀直哉を凌駕する希望というものは抱きにくい状態であったし、かつてバーナアド・ショウやゴルスワージーの影響の下に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」等を生んだ菊池寛は、その作家としての特色の必然な発展と大戦後の経済界の膨脹につれて近代化したジャーナリズムの吸引によって、久米正雄と共に既に大衆文学へ移っている。さりとて上記の作家達が『文芸戦線』の文学運動に身を挺するには、その文学理論が納得されなかったこともあろうし、その納得されにくい気分の根本には都会の小市民生活が必然した都会主義も強く作用した。この「新感覚派」が『文芸戦線』の文学的傾向とは全く対蹠的なキュービズムやダダイズム、構成派の影響を強く受けて、それを独自なよりどころとしようとしたことも充分うなずける。
当時「新感覚派」はプロレタリア文学に不満を持つ広い範囲の知識人、文学愛好者の支持を受けたものであったが、文学の流派としては僅かの寿命で衰退したことも、日本の文化の伝統の性質と考え合せて意味深く思われる。大戦後のフランスで過去の文化の崩壊の形として現れたキュービズム、構成派、ダダイズム等は自然の歴史の流れに随って前進してある部分はより建設的な方向へ合流したのであったが、「新感覚派」がわがものとして身につけようとしたその日本らしい影響は、過去にそれらの流派を生み出した文化伝統を持たないと同時に、プロレタリア文学に対立したものとして自身を規定したことから、流派として短い命しかもち得なかったことも理解される。昭和という年は、文学史の最初の頁を芥川龍之介の自殺(昭和二年)によって開いた。
大正の前半期に文学の同世代として衆目を引く出発をした芥川龍之介は、他の同輩菊池寛や久米正雄のようにそれぞれの才能の易きについて大衆文学へ移ることをしなかった。プロレタリア文学の擡頭
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