雑多な個別的な花を開かせたが、例えば尾崎士郎の「人生劇場」にしろ、川端康成の「雪国」にしろ、各人の芸術完成の一定段階を示しながら、作者自身にその完成の歴史的な意味を自覚させるために役立つ力は持たなかったのである。
 ヒューマニズムは単なる生命主義ではないといわれつつも当時北條民雄の「いのちの初夜」その他が生の緊張の美として一つのセンセーションを起し癩文学という通俗の呼び名が作者たちの忿懣を招いたこともあった。
 現代のヒューマニズムは頽廃の中にあるとする高見順は、「描写のうしろに寝ていられない」という自身の理解から「十九世紀的な客観小説の伝統なり約束なりに不満が生じた以上は、小説というものの核心である描写も平和を失った。」と説話体の手法をもって現れた。この作家が、頽廃の中にさえヒューマニズムをみようといいながら、描写への疑問の理由を、「客観的共感性への不信」に置いていることも私たちの注意を惹くところである。形式を文学の内容の特殊なモメントとして観察する場合、高見順によって始められたこの説話体は、その物語の形式に於て失われた自我の姿が反映していることも意味深いし、評論が当時独白化しつつあったと同じ理由で、人間像をそれなりの現実で再現する力を失って、現実の物語り方に独自な主観の色調を主張しようとしたところも、頽廃のうちにヒューマニズムを打ちたてるというよりは、むしろヒューマニズムの頽廃の一つの型ではなかろうか。なぜならヒューマニズムは古来、つねにより広い人間性の客観的な共感に拠り立っているものであるのだから。
 石坂洋次郎の「若い人」、「麦死なず」等の迎えられた時代的な性格も面白い。江波恵子という特異な少女がその少女期を脱しようとする奔放な生命の発動に絡んで、間崎という教師、橋本先生という女教師等が、地方の一ミッション・スクールと地方的な文化を背景として渦巻く姿を描いた「若い人」が、多くの読者を惹きつけた原因の第一は、作者のエロティシズムと地方的な色の濃い描写とで描き出された江波という若い娘の矛盾錯綜してゆくところを知らない行動と情感が、ある意味で、所謂人間性の無制約な肯定として現れている当時のヒューマニズムの傾向に相通じる一脈をもっていたからであったと思う。「麦死なず」にしろこの「若い人」にしろ、作品の世界は、その中の主人公たちが常識と一種の卑俗さによって敗北している
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