後に進みきる様子はなく、距離にしたら五六間もない空間で、前後左右に漂っている。
 渦にでも捲かれているように、人波に逆らい七八歩も黒い頂を傾け浮いて行ったかと思うと、ひらりと白羽毛飾を向き更らせ、皆の来る方に動いている。が決して、十字街の此方に車道を踰《こ》えようとはしなかった。暫く鋪道の端れの一箇処で羽毛飾が揺れると見ているうちに、再び、気をとりなおしたように、痛々しく帽子の大きな縁をかしげて群集の間を新たな力で溯り始めるのだ。
 その婦人帽の動作には、何とも云えず看る者の心を打つものがあった。苦しい程熱心な、疲れても疲れてはいられないと云う悲しい張が、特に、再び人群を溯ろうとし始める瞬間、私の心まで刺すのであった。
 あの帽子の下には、恐らく一つの外国婦人の顔があるのだろう。何か売りでもしているらしい。
 らしいと云うのは誤りだ。私は、すっかり知っているのだもの。
 彼女は露西亜人だ。それも小露西亜の農民らしくがっしり小肥りな婦人ではなく、清げに瘠せた体に、蒼白い神経質な顔、同じように鋭い指。それに写真画帖のようなものを持ち、
「お買い下さい。いりません?」
 買いと云う字に妙なア
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